冬野梅子『普通の人でいいのに!』私はこう読んだ

1.

以下、頭の上にミカンをのせる(よしきさん)の記事への異論、というスタイルで私の感想を書く。以下、引用はよしきさんの記事から。

あと、漫画『普通の人でいいのに!』の主人公は田中さんという名前で、以下の文章でいう「田中さん」とは、全てこの主人公のことを指す。

2.

よしきさんの感想記事への率直な気持ちは、「大袈裟だな」と。漫画とか映画とか、あるいは現実のニュースでもそうなんだけど、感情を大きく動かしてる人(の一部)って、こんな感じなのかな……とも。

単に書き方の問題に過ぎず、実際に考えていることは違うのかもしれないが、いろんなことを悪い方向に決め付き過ぎじゃないか、ということも気になる。

長々と引用しているが、まとめると「自分で自分を承認できない」「自己肯定の気持ちや自己の評価は他人が与えてくれるものだと思っている」ということだ。

そういう面は誰にだってあるわけで、自分への承認や肯定を100%自分で行っている人なんていないだろう。人に否定されたら、多かれ少なかれ、傷付くものではないか。承認を得られなかった場面で、ビクともしない人物が出てきたとして、共感する人がどれだけいるのだろう。

田中さんは、いろいろなことに少しずつ傷付くけれど、ちゃんと自分を大切にしている。自分なんかどうでもいい存在だとはみなさない。生活を整え、身だしなみを整え、言動を整える。まさに自己愛を持った人物のふるまいではないか。立派な、自立した人ではないか。

同時に、独善的にはならず、他者の立場・気持ち・判断を理解しよう、尊重しようとし続ける。なかなかできることではない。

それでも、ある瞬間には感情に敗れ、愚かなことをしたりもする。それだけの動揺をした理由は、作中に描かれている。相手にとっては理不尽だとしても、田中さんにとっては、理由があった。

こうしたとき、自分の心を守るために、客観的にはそうでないとしても、相手が悪い、誰それが悪い、「ということにしたくなる」ものではないか。しかし田中さんは、心がワーッとなっているさなかであっても、即座に「自分が悪いことをした」と理解し、その認識から逃げない。

正直、これ以上を望む人の感覚が、私にはよくわからない。これだけ善良な人が、実際どれだけいるというのか。聖人君子しか認めない、好きになれない、かのような人が多くて困惑する。

説明と謝罪がなければ、理不尽な目に遭った相手には、何が何だかわからない。でも、「ああ、何かあったんだな」と思うだろう。それで、赦すか、忘れるか、するだろう。相手が自分から話そうとしないなら、詳細を訊ねたりはしないだろう。

こういうことは、お互い様だと思う。幼い頃、毎日朝から晩まで不機嫌で、何もかもに怒っていた私に、両親は辛抱強く向き合ってくれた。私はその恩を、とても返しきれない恩を、誰かに返していく。

田中さんとの関係においては迷惑をかけられるばかりの人物も、他のどこかで人に迷惑をかけてきただろう。お互い様とは、そういう意味だ。

3.

上位コミュニティでの居場所を失って改めて自分の立ち位置を確認してみたら、実際には見下していた人たちのほうがよほどしっかりしているということに気づいてしまう。

「見下していた」という解釈の冷たさ。一面において、ある瞬間において、くらいの話だと思う。誰にでもある、ふつうの感情。なぜそれを断罪するような書き方をするのか。

この彼氏が自分と相性が極端に悪い。

引用文中の「自分」とは、田中さんのことである。

私の認識では、映画館の場面にせよ、彼氏の解説図にせよ、別にバカにしてもいなければ、見下してもいない。相性も、悪くない。

周囲に彼氏を紹介した場面も、「見せつけようと」したのではなく、単に「話の流れで、別に隠すことでもないから、自然に紹介した」という解釈が成り立つ描写だ。

他人に羨まれるような彼氏ではない、しかし恥ずかしくなんかない、真面目で温厚な、好感を持てる人物で、だから臆せず周囲に紹介できる。そう読み取ることに、不自然さがあるだろうか。

ラジオパーソナリティ周辺のコミュニティに顔を出したときに出た「じゃあ交換する?」という言葉に、ひがみや、嫉妬心はあったろう。が、それは、彼氏について、ずっと我慢に我慢を重ねてきたとか、不満に堪えかねていたという話だと考えなくても、成り立つことではないか。

彼氏のどこが悪いということではない。基本、満足している。好きか嫌いかでいったら、それは間違いなく好きである。それでも、「会ってみた~い」「え~優しいって聞いてますよ」「いいなあ 素敵じゃないですか」といった言葉には、イラ立つ。……どこも、おかしなところのない話だと思う。

田中さんは現実から目をそらして生きてる人間かもしれない。

でも、他人に迷惑をかけない範囲において、嫌な現実から目を背けて生きたって別にいいじゃないか……。

なのに、作者はそれを許さない。

丁寧に丁寧に、一つずつ彼女が「他人に見せるために繕っていた外面の部分」をはぎ取っていく。

まるでマーターズの拷問を見ているようだ。つらい。

この辺りも、私は見方が違う。田中さんは、冒頭からずっと、自分をよく観察している。見えているものから、目を背けずに生きている。自分を偽らず、そのまま周囲に見せてきた。

よそ行きの自分、日常の自分に多少の差があるのは、当たり前。時々だからできることと、毎日できることは違う。田中さんは、よそ行きの時でも、無理も分不相応なこともしない。自分にできること、自分がやりたいことをしている。理想的に自らを律している。

結末の感情の爆発も、田中さんがマジメだから心乱れるだけの話で、本来、どうということはない。夢を見るのは、人の精神の自由というものだ。田中さんの苦しみは、虚飾の報いなどではなく、自分自身への潔癖さが原因であって、「今後は心に鎧を着ることを自分に許したらいい」と私は思う。

【追記】田中さんは、自分が本当になりたくない自分になってまで、コミュニティの空気に迎合するといったことはしていなかった。田中さんは「自分がなりたい自分」に合致するコミュニティを、正しく選んでいた。「こうありたい自分を演出する」のは、私は「当人の内面の素直な表れ」と解釈する。何らかの経緯で理性のタガが外れた状態が「偽りのない自分」とは、私は考えない。そういった意味において、私は田中さんを「自分を偽らず、そのまま周囲に見せてきた」人だと評する。

4.

物語の結末は、物語を閉じるために、派手に展開する。私は、そう解釈している。

よしきさんとは、ここの読み方が違うのかな。日本を飛び出してウラジオストクまで行き、しかしビザがなくて入国できず、空港のロビーで「もう…死にたい…」という。田中さんがそうまでするからには、これくらいのことがあったはずで……と。

私は所詮、それは漫画らしい空想であり、飛躍であり、つまるところ、実際の田中さんは部屋の中で座っていると考えている。

「趣味だってバカにしやがって」から先は、全て妄想だろう。電話した先の田中さんの友人が、あまりにも都合よく怒りに油を注いでくれる。ここで田中さんがやっているのは、自分でも「誤った方向にぶちギレてる」と理解できている感情との対決である。

感情を理性で制御することが、自分のキャパを超えた局面で、いったん積極的に感情を解放するセルフカウンセリングだ。そのための対話相手のペルソナが友人だった。対話を通じて感情が頂点に達し、ロシアまで行った自分の姿を空想して、やっと理不尽な怒りの火種が燃え尽きた……。

そもそも彼氏を部屋から押し出していない、とも考えられるが、他者のいる部屋で自省するのは難しい。押し出しまでは実際にやったことだと解釈。あるいは、屋外に放り出したのではなく、居間から寝室に押し込んだ、くらいのことかもしれない。

田中さんの心が決定的に乱れていた時間はそう長くなくて、落ち着きを取り戻した田中さんは、扉を開けるか、彼氏に電話するか、ともかく仲直りするんじゃないだろうか。

なお、仲直りに失敗して、あるいは断念して、これっきりになっても、別にそれはそれで構わない。復縁したら幸福で、そうできなければ不幸、という話ではない。

5.

よしきさんが引用されている通り、漫画を描いた冬野梅子さんは「誰も羨ましいと思わない人を描きたかった」と仰っている。

つまり、作者の意図はそうだった、と。

で、実際の作品が作者の意図の通りになっているかといえば、なるほど、よしきさんの解釈も含め、たしかにそのようにも読めるけれども、私はそう読まない。

ここまで何もなくなってしまっても、それでも突き抜けられない、何物になることもできないという地獄

田中さんは一貫して、そこそこ幸福である。まずまず安全な現代日本に暮らし、食うに困っておらず、周囲の人が真っ当で、何より田中さん自身が善良だからだ。

リンク

ブコメレスなど

逆に何でそういう認識になるのか不思議。

  • 彼氏の写真を見せる時、恥ずかしそうにしている描写がない。
  • 彼氏のこと周囲に悪くいうセリフがない。
  • 彼氏図解の中に、真面目、温厚の記述がある。
  • 彼氏になる前の倉田さんからアプローチがあった場面、物理的に距離を詰めてきた場面、いずれも嫌悪感を示す描写がない。
  • 彼氏が主人公の逆鱗に触れた場面で明示されているのは、「趣味」という言葉に怒ったということ。しかしそれは田中さんの問題だという自覚、彼氏に申し訳ないという感情が、きっちり描写されている。

ざっとこれくらいで十分ですか?

理想とは違う、そのことへの胸の痛みはあれど、彼氏を恥ずかしいとは思っていない、あるいは、仮に内心恥ずかしく思っていたにせよ、それを表に出さないと決め、実際にずっとそれをやり抜いてきた田中さんが、漫画には描かれています。

そうやって生きてきた人の胸を開いて、「本当に少しも恥ずかしく思っていなかったのか?」みたいな、「ゼロでなければイチである」式の追及をするのは、むしろ馬鹿げていると私は思う。「じゃあ交換してみる?」と、たった1回、口にしただけだ。感情が不安定になった時の、たった1回きりの言葉だよ。それをつかまえて、本音が出た、裏切りの告白だ、というのか。

『普通の人でいいのに!』って、途中までは、ありふれた市井の人を描いていると思う。でも、ラスト、感情が振り切れたからって即日ウラジオストクまで直行するとなると、田中さんは途端にエキセントリックな人物となってしまう。

描かれている通りに読めばそうなるが、私は、そういう読み方をしない。

商業エンタメでは、ケレン味がないとヒットが難しい。平凡な人の平凡な日常を最後まで貫くわけにはいかない。同時に、平凡な人の平凡な感情を描かないと、キャラクターが共感されない。それで、平凡な心の持ち主が、平凡でない過剰・過激な行動をする物語が、世の中にあふれている。

多くの人はそれが気にならないようだが、私は気になる。それで、平凡な心の持ち主の異常な行動は、「作者の妄想」あるいは「キャラクターの妄想」と解釈している。

例えば、家族や恋人を殺された人が、復讐心を抱く。これは大勢が共感できる。ただ現実には、遺族による復讐殺人事件は、滅多に起きない。現実には、殺したいと思っても、思うだけに終わる。それがリアルなのだが、そのままではエンタメにならないから、フィクションの世界では復讐殺人が実行される。私はそれを、「……という妄想だったのさ」と解釈しているわけ。

「全て創作」なのではあるが、それでも途中までは、本当に本当の話のように読める。そういうラインがある。『普通の人でいいのに!』では、「趣味だってバカにしやがって」まで。

私が「4.」でいっている「実際の田中さん」とは、本来のリアリティラインを貫いた場合の、仮想の田中さんのことである。

ただ、この作品の場合、作者が最後に田中さんを「普通の人の共感を拒絶する」水準まで、あえて暴れさせたとも受け取れる。最終的に物語が「他人事」になることで成功したエンタメなのかもしれない。

上で私が述べている「妄想」とは、作者がキャラクターのリアリティを物語の中途で放棄し、エンタメのため過激な行動に走らせることを指している。この場合、入国にビザが必要なことがわかる理由は簡単で、「作者が知っていたから」である。

田中さんによる作中妄想である、とした場合も、話はあまり変わらない。田中さんも、入国にビザが必要なことを知っていたのだ。妄想でウラジオストクまで行ったら気持ちが落ち着いてきたので、「ビザがなくて入国できず」という合理的な理由付けをして、妄想の旅を終わらせた。あるいは「ウラジオストクの景色が想像できないので、ビザのせいにして空港にとどまる妄想に方向転換した」ということでも構うまい。

「disってる」という認識に不同意。

田中さんが「趣味」をバカにしているというのは難癖。趣味との混同に怒ったからといって、趣味をバカにしているという話にはならない。素敵なものとなら混同されてもいい、わけじゃない。

「てらいがない」の件、間違っていたので修正しました。ご指摘ありがとうございます。