『Wビンゴ四重奏』のこと

ボードゲーム製作という趣味に取り組むにあたって、「より多くの人に楽しんでもらえるように」というのが原理原則の人が多いだろうと思います。

本、雑誌、ネットコラム、いろいろ読みましたが、そのあたりは共有認識らしい。

私は、違います。

過去にも書いてきたことですが、私は究極「自分がやりたいことをやる、作りたいものを作る、その手段としてのボードゲーム製作であり、ゲムマ出展」と考えています。

試作ゲームのテストプレイでは、いろいろ参考になるご意見をいただけます。が、その少なからずは、「理解し、受け止めましたが、不採用」。

実際、ゲムマに出してみると、あるいは帰省して家族と遊んでみても、テストプレイ時に出た指摘そのまんまのダメ出しを受けることが少なくないわけです。

そうなって初めて指摘の正しさが理解できる……のではなくて、最初から指摘が正しいのは、わかっているんですね。

ではなぜ、「不採用」なのか。

細かくいえばいろいろありますが、一言でいうなら「それは私のやりたいことではない」からです。

なるほど、このままではウケないのはわかった、不評なのもわかった、改善案も提示していただいた。さて、どうしようかな、と。

ほとんどのボドゲ作者さんは、不評とわかっていてそのままにはしないと思うのですが、私は「趣味の絵画」と同じようにボドゲ製作をしているのです。

「別に、不評でもいいんじゃない?」という選択肢が、常にあるのですね。

誰かに強制的に買わせるわけじゃない。買いたい人しか買わないのだから、私の好きなようにして、何の悪いことがあろうか。

せっかく意見したのに、却下するとは何事か、聞く気がないならアドバイスとか求めるな、みたいに怒る方も、稀にいらっしゃるわけですが、それは違うと思っています。

他人の意見は貴重で、全て役に立っているのです。

私は別に、最初からウケない物を作ろうとしているのではありません。まず自分というプレイヤーにとって「よいもの」を作っているのです。だけど、他人に遊んでもらうと、「ここがイマイチ」「もっとこうしたら」という話になる。そして、その意見は、正しい。

だけど……。

私にとって、何のこだわりもないことについては、いただいた意見にすんなり従う。
自分でも迷いがある点なら、よく考えて決める。
誰に何といわれようとこうしたい、という点は譲らない。

多くのボドゲ作者さんは、「より多くの人に楽しんでもらえるように」という目標を共有されているから、その目標に合致する助言を却下するなんて、あり得ないことだと思う。

だけど私の場合は「より多くの人に楽しんでもらえるように」は第2目標なんですね。「私は私のやりたいことをやる(そして、やりたくないことはやらない)」が第1目標で、それとぶつからない範囲内で第2目標の達成を目指す。

問題は、自分が何をやりたいのか、自分でも明確に認識できない、言語化できないことです。

「こうした方がいいんじゃない?」といわれて、「嫌だなあ……」と思う、その積み重ねでしか、自分の中のこだわりを認識できない。

絵を描くことは、自分を見つめること。私にとって、絵を描くというのは、自分を知る手段として「かったるい」と思うようになって、それでやめてしまったわけですが、テキストサイトとか、オンラインゲームとか、いくつかの趣味を渡り歩いてみて、趣味って何でも、結局のところ自分探しの変形という側面があるんだな、と感じています。

私は数年前まで『ドラゴンクエストX』のプレーヤーでしたが、とにかく戦闘が弱くて、貧乏で。もっとこうしたら強くなるとか、立ち回りのコツとか、親切にいろいろ教えていただいたのですが、だいたい実践しませんでした。どう準備し、どんなことを意識し、どう練習したら強くなれるか、何をすればゲーム中で金欠から解放されるか、ということは、できないなりに理解ました。理解した上で、やりたいことはやるし、やりたくないことはしない。そう決めました。

何を助言しても弱いままだし、ボス戦とか誘うのはやめよう、となるのは仕方ない。私にとって「学び」とは、何が「仕方ない」ことなのかを知ることでした。右も左もわからないまま、「ただ弱い」のは嫌。でも、あれもこれも学んだ上で、「自分の選択として弱い」なら、いい。それなら、納得できるのです。

ゲームはいろいろな目標をプレーヤーに提示してくれるわけですが、少なくとも私から見た『ドラゴンクエストX』は、「どの目標も無視して構わない懐の深いゲーム」で、だから私は大好きで、何年も遊んでいたわけです。今はプレイしていませんが、何か不満があって休止したわけではありません。

たぶん私にとって、「MMORPGドラクエという切り口でやれる自分探し」はひと段落したので、それで他の切り口を探したのだと思う。とくに用途のない資格をたくさん取得したり、しばらくあまり視聴していなかったテレビドラマとかをたくさん観たり、落語の寄席に通ったり、そうした中で、ボドゲ製作との出会いがありました。

人との関わりが多い趣味は、『ドラゴンクエストX』以来となります。ドラクエボドゲ製作とでは共通点の方が少ないだろうと思いますが、結局、やっているのは人なので、プレーヤーのふるまいそのものは、似たところが多いと感じます。

ドラクエのゲームとしての主軸はバトルにあり、ゲーム内の要素の多くは「強くなる」ことに結びついています。「強くなろうとしない」と自分で決めたら、ゲームを構成する要素の過半が「自分とあまり関係ないこと」になります。

ドラクエの「強くなる」は、ボドゲ製作でいうと「売れる」に近いと感じています。「売れなくていい」と自分で決めてしまえば、ほとんどの悩みは雲散霧消する一方で、「じゃあ、何をしたらいいの?」ということにもなるわけです。

けっこう多くの人が、言語化できない「自分のやりたいこと、やりたくないこと」を軽視しているように思います。「じゃあ、お前は何がしたいんだ」と聞かれても、うまく答えられないので、「だったら、より大勢に楽しんでもらえるゲームを作ろうぜ」と、ビジョンを明確に言葉にできる相手に、モヤモヤしつつも従ってしまう。助言に従っても大ヒット作になるわけじゃないけど、元より出来のいい作品にはなるから、何となく満足する。

美術部で絵を描くのは、授業で絵を描くのとは、だいぶ違うことで。技術の習得が目的ではないから、誰に褒められる絵でなくてもよくて。いかなる助言も、聞いても聞かなくてもいい。デッサンなんか、どれだけ狂っていても構わない。うまい人が手を加えたら「一般論としてよりよい絵」にはなるけど、当人がそれを望むのでない限り、そんなことはしない。何か相談されたら答えるけど、話を聞いた末の結論が「自分がやりたいことは違うとわかりました」なら、別にそれでいい。話をし、考えた結果としての「何も変えない」と、ただ「何も変えられない」は違う。外から見たら同じでも、当人にとって違う。

「絵がうまい」という尺度は世間でおおよそ通用しているものがあって、「絵がうまくなる」ことへの誘導は社会に存在するのだけれど、敢えてそこから切り離された世界を作ることに美術部の存在価値はありました。少なくとも、私にとって、私が中高で所属した美術部(中高一貫校でした)はそういう場所で、だから私は、絵を描くこと自体には半ば興味を失いつつも、6年間そこに居続けたし、部員が絶えて無くなってしまわないように必死で守ろうとしたのです。この学校に絶対に必要な場所だと、当時の私は思っていたし、今もそれは間違っていなかったと思います。

絵がうまくなろうとする努力をしない、絵の勉強をしない、どんな絵を描きたいのか、話を聞いても要領を得ない。そもそも絵を描きたいのかどうかもわからない。だけど、部活にやってきて、絵を描く。「何だそれは?」という声はあり、当時の私は、そうした声に、きちんと反論できませんでした。が、「これでいいんだ」という確信だけはありました。

「自分は、絵が下手だから、美術部を続けられるかわからない」という部員がいれば、初歩的な技術や知識を伝える絵画教室を開き、「絵が少しうまくなる」体験をしてもらいました。別にそれで他人から褒められる水準にまでなるわけではありません。私だって、別に全然、絵はうまくない。でも、切っ掛けはそういうことで構わないと思いました。

別に「うまい絵」でなくていいし、「少しずつうまくなる」必要もないし、「うまくなろうとする」意欲すら、じつは不要なのです。そんなことは、重要ではない。でも、そういうことを言葉にしても、説得力がない。最初は、世間の、家族の、クラスメートの、そして自分自身の、無意識に自分に押し付けている「もっと絵がうまくならなきゃ」という誘導に従う形で構わない。そうして騙し騙し絵を描き続けていたら、「ああ、絵って、ただ描くだけでいいんだ」と、どこかで腹落ちしてくれるのではないか。体験的に、納得してもらえる可能性があるのではないか。

本当に自分がやりたいことが「絵がうまくなること」なら、それは全然構わない。美術部には絵の教本も、画集も、道具も、絵が上手で人に教えるのが好きな先輩も、みんな揃っていました。だけど、たいていの部員は、結局、最初の思いからだんだん外れていき、次第に「言葉にはし難い理由で絵を描く」ようになっていったのでした。毎日のように絵を描いて、でも全然うまくなんてならない。うまくなろうと、していないんだもの、うまくなるわけがない。それを無駄だとか、もったいないとか、先生方からそういう意見が出たことはないけれど(今にして思えば、奇跡的というか、当時は気付かなかったのですが、私は先生方には本当に恵まれていた!)、各部員のご家庭とか、クラスメートとか、あるいは友人とかからは、繰り返しそうした言葉が飛んできて、それに対してどう抵抗するか、それがずっと課題でした。

当時「うまく言葉にできなかった」ことは、今も「うまく言葉にできない」まま。

ボードゲームはさ、遊んでくれる人がいなきゃ成り立たないわけだから、一人よがりじゃだめだよ、遊んでくれる人のことを大事にしなきゃいけないよ」という主張は、強い。きちんと言葉にできているから、強い。私が何をいおうと、勝ち目があるとは思えない。

それでも……。

ボドゲ製作に関する助言の大半って、絵を描いている人に、「もっとこうした方が、いい絵になるよ」というのと、同じだと思います。描いている当人にとって、どうでもいい部分なら、助言の通りにしたらいい。だけど、うまく言葉にはできなくても、「そうしたくないな」と思うなら、その助言は却下でいい。「テストプレイはした方がいいよ」というレベルの助言ですら、そう。したくないなら、テストプレイ、しないでいいよ。

「いや、別に押し付けているわけじゃないよ、ボランティアでテストプレイに参加して、何かご意見があれば、っていうから、話したの。それを迷惑みたいにいわれても」

ごく一部の人の話になるのだけれど、そうやって話を取り違えること自体、「実は思い違いをしている」ことの表れなんだと思う。仰る通り、求められて意見したのであって、わざわざ求められてもいない助言を勝手にぶつけたのではない。助言そのものを迷惑だなんて、誰もいっていないのです。助言はありがたい。感謝してます。きちんと受け止めています。ただ、結論が「助言を受け入れない」なだけ。その理由を、「うまく言葉にできない」だけ。

私の場合、ドラクエでは「強くなる」こと自体を放棄したから、親切な助言の大半を却下することになりましたが、ボドゲ製作に関しては、かなりの部分、素直に受け入れています。

それでも……。

ずっと同じ話を繰り返しているだけ、なので、ここで区切ります。