同じ罪、同じ罰

id:brightsoda 「格闘家のこぶし」という例についていうと、まず私は、「凶器を使ったから悪い」という判断基準に、いまいち納得していません。

目的と結果が問題で、手段が凶器であろうとなかろうと、目的と結果が同じなら、同じ罪、同じ罰が相当ではないか。

実際の、というか、現在の日本の司法の判断では、目的、意思を推察する道筋として、「どんな手段を使ったか」が援用されています。当人が法廷で何をどう述べようとも、「現にこんな手段を使った」という事実から、次のような意図が推察できる……という論の立て方。

なるほど、これは、やむを得ない感じがします。実際には、凶器を持ち出したことに意味はなかったかもしれない。けれども、司法が目的や意思を重視して判決を出そうとしている以上は、あらゆる要素を少しでも目的や意思に結び付けて、推論を補強したいという話になるのは、仕方ないと思います。

とはいえ、それは世間の話で、私個人の内においては、手段は手段、目的は目的、と分けて考えたい。凶器という手段を使ったからといって、「即ち重罪」とは、私は考えません。

なので、と論を進めてご納得いただけるかどうかは心もとないですが、私は、著名人のTwitterの影響力は「一種の凶器」だとしても、「だから一般人のTwitterより合法・違法のラインを厳しく取る」ことには、反対です。

上で、「同じ罪、同じ罰」と書きました。

とくに刑事裁判においては、軽微な罪は「罪ではない」ということになりがちです。結果の大小が、その行為が罪かどうか、それ自体を左右しています。

他方、民事裁判においては、「1円訴訟」といったものがあり、結果は小さくとも、「悪いことは悪い」という議論が成り立つ場合が少なくありません。

私の認識では、刑事では有罪と無罪とでは、被告に与える影響の違いが非常に大きいから、微罪は「罪ではない」ということにしないと、むしろ社会の公正が損なわれてしまいます。民事では、境界付近の事例においては「良い」「悪い」の差異がかなり小さいので、微罪であっても「それは悪いこと」と判断することが、社会の公正さに資するでしょう。

さて私は、民事の発想で、「それは悪いことだ」という基準は、著名人でも一般人でも同じであるべきだ、と考えています。これが私の考える「同じ罪」です。

結果には差があるでしょうから、罰である賠償金額の方は、結果に応じて、ということでよいでしょう。一般人でも、影響力が大きい人もいるでしょうから、その場合、客観的な諸指標に基づき、三浦さんと同等の賠償を求められるケースもあって不思議はないと考えます。結果に比例した罰、これが私の考える「同じ罰」です。

著名人だから比例係数を大きくしよう、みたい話には同意できません。

別の話ですが、ついでにレス

レスを書こうとして、手が止まってしまいました。たぶん私が、いただいたブコメの内容を理解できていないように思います。

タイトルが当然にまとめ内の言葉だと思われるなら、なおのこと、セルフまとめが本来化する方がいいんじゃないかと、私はそう思うわけです。