作者が死んでも作品は続いてほしい

1.

id:brightsoda 字数を気にせず書きたかったので、ブログで。私の考えをまとめる意図で書いているので、とくにレスは要しません。

2.

まず私は『アクタージュ』という作品を知りません。一度も読んだことがない。

好きな作品だから、知っている作品だから、とかではなく、一般論として、関係者が犯罪を犯したことを理由に作品が消えてしまうことに反対意見を述べました。読んでみたら私の嫌いなタイプの作品かもしれないし、面白く感じないかもしれないけれども、それは関係がない。たとえどんな作品だったとしても、私の意見に影響はありません。

結果的に人気がなくなってビジネス上の問題で連載が途絶するならいいのですが、「批判の声」によって潰されることについて、私は一律に反対です。各出版社の「連載をやめる」自由、「出版しない」自由は、100%尊重します。しかしそれは、批判をしない、反対意見を述べないということではありません。「無理やり連載を続けさせられる」といった強制を支持しない、強制に与しない、という意味です。

また、話は少し違いますが、私は元少年A『絶歌』、永田洋子『十六の墓標』、宮崎勤『夢のなか』、広瀬健一『悔悟』、いずれの出版も擁護します。正田昭『サハラの水』、永山則夫木橋』など、当人の犯した罪と関係ない創作の出版も擁護します。

3.

さて、以上は前置きで、ここから問いに答えようと思います。

1. 集英社が連載を止めたというより、不可抗力(集英社にとっては)がすでに実質止めてる

2.作者が死んだときは引き継がせて続けさせろとは言わないでしょ 作者が死ぬのと原作が逮捕されるのでなにが違う?

まず私は『アクタージュ』という原作付き漫画について、編集部主導の企画という想定をしています。この前提が間違っていて、意気投合した原作者と漫画家の私的な関係をベースとした創作活動だったなら、作者の逮捕で物理的に継続困難という意見に同意します。

で、今はじめてWikipediaを見たんですが、どうやら私の前提が間違っているようなので、物理的に連載終了は当然なんだろうな、と。

というわけで、この先は、『アクタージュ』と直接には関係ない話になります。

4.

私は近年、小説や漫画といった、作家単位で生み出されることの多い創作とは距離を置いていて、映像作品等、主に営利企業が組織・集団で製作する創作の方に関心が向いてます。

映画にせよ、ドラマにせよ、企画の過程でプロデューサーが死んでも、ディレクターが死んでも、脚本家が死んでも、主役俳優が死んでも、別にそれで必然的に企画が止まってしまうなんてことはなく、その人が死んだら儲かる算段が立たない企画でない限りは、誰が死んでも企画は生き続けます。

よい企画は、誰かが物理的にいなくなったからといって、潰れてよいというものではない。プロデューサーだろうとディレクターだろうと主演俳優だろうと、必要とあらば代役を立てて完成にこぎつけるべき。

個々の映画などは完結することが大事ですが、素敵な世界観、キャラクターなどについては、永遠の命を得て然るべきだと思う。

マーベルコミックスなどのアメコミが、企画をその根幹とし、全ての関係者を「代替可能な存在」として新作を世に送り出し続けているのは、とても良いことだと認識しています。

1988年に亡くなったハインラインの『宇宙の戦士』が、1997年に『スターシップ・トゥルーパーズ』という(新しい)映画になったのも、素敵なことでした。その後、駄作とはいえ原作から独り立ちして続編が生み出されていったのは、よかったと思います。

日本の漫画にも、そうした例はあります。『クレヨンしんちゃん』は作者の没後10年になりますが、今も漫画連載中です。2015年に連載が始まった『ドラゴンボール超』もヒットしています。原作者が亡くなって24年になる『ドラえもん』も、大長編の漫画版が今も続いています。本編の正当な続編ではないスピンオフまで含めれば、こうした事例はかなり多くなっています。

5.

「作者が亡くなったら、それで作品が終ってしまう」のは、もったいない。どうでもいい作品なら消えても仕方ないですが、よい作品は作り続けてほしい。それは、「新しいものを作り続ける」ことと、同時並行でやれるはずです。

創作の過程全般があまりにも個人作業であり過ぎる小説が、いちばん同形式での続編の可能性が低い。大勢の脚本家が関わっても『相棒』シリーズが『相棒』シリーズであり続けるように、小説だってもっと、大勢が1巻ずつ書くスタイルで刊行されてもいいように思うけれども、成功例が少ない。理由はよくわかりませんが、ともかく現実に成功例が少ない。

漫画は、アメコミ等で、大々的な成功例がいくつも。それでも、映像と比べると、全然。

映像の世界では、人より企画が前面に出ています。連続ドラマの多くは、演出も脚本も複数人の分担です。旧作の関係者が全員亡くなってから作品がリメイクされる、なんてこともしばしば。何もかもが変化したって、「ゴジラ」は「ゴジラ」です。

金田一耕助シリーズは新しい映像が世に登場し続けています。主役俳優が交代しても人気が続いている点では、『相棒』シリーズよりすごい。けれども、金田一耕助モノの原作小説は、もう書かれない。誰も書かない。結局、『相棒』シリーズやゴジラは全く新しい新作が生み出されるのに、金田一耕助はリメイクばかり。もったいない。小説に縛られているばっかりに、そうなってしまう。残念でなりません。

6.

つらつら述べてきましたが、私は、作者(の一人)が逮捕されようが亡くなろうが、作品は続くべきだと思っています。誰も人気を維持できず、それで経済的に継続不可能なら、仕方ない。でもせめて、チャレンジしようよ、と。やるまでもなく失敗することは明らか、というなら仕方ないけれど、本当の本当にそうか? 当たるか当たらぬか不明な全くの新作に取り組むより、本当に可能性がないのか。

脚本家に注目しながら映像作品を見るようになってからというもの、小説や漫画に関する大勢の認識は、じつはかなりの部分「思い込み」に過ぎなかったのではないか、と思うようになりました。まあ、実際にどうなのかは、消費者に過ぎない私にはわかりませんが。

追記

1.表現の自由の範囲内の適切な批評と表現規制的発言の区別があいまいで、いわゆる表現の自由擁護者が勝手に基準を決めているように思われること。あなたはどうやって「普通に批判されてなんとなくやる気無くした人」と「私的な表現規制を受けて表現の道を閉ざされた人」を区別するんですか。

ここは、いくぶん私の考えとは違っています。

今回、私は『アクタージュ』の件について、集英社の連載終了という判断についてだけ、異論を述べています。

犯罪者が原作者だった漫画が週刊少年ジャンプに連載され続けるのは不愉快だとか、被害者が嫌な思いをするだろうから連載を終了するのは当然だとか、そういった主張をする人に対しては、何もいっていない。それは私個人の考えとは異なっていますが、異論を述べて説得できる感じがしません。

また、上述のような主張自体は、言論の自由の範疇。それを制約したいという考えもありません。

集英社に対しては、営利企業なんだから、営利ベースで考えたらどうか、原作者を交代して続けるという話が、ビジネス上、本当にそれほど不利か、よく検討してほしい、そうしたら、連載を続ける道も見えてくるのではないか……そういう思いがありました。

「連載を終了せよ」という人の多くは、もともと買って読んでいないのではないか。スルーしても商売に悪影響はないのでは? 原作者を交代して、人気が下がるか上がるかはわからないが、せめて挑戦してみて、やっぱりダメだとわかってから連載を終了したっていいはずだ……。

「いくぶん」と述べた通り、仰る内容には、私の平素の主張と重なる部分もあります。

私がふだんから批判しているのは、「私は不愉快だ」「誰それも不愉快に思うだろう」といった感情の話を超えて、「だから不愉快な表現をさせまい」とする主張です。まあ、そういう主張をするのも言論の自由の範疇ですが、表現を圧殺しようとする主張に、私は基本的に賛成しません。

誰に何の強制力もなく、「ただ批判しただけ」というのはその通りであって、批判された側がスルーを決め込めば、それまでのことではあります。が、自分の無力さにあぐらをかいて、「どうせ強制力などないのだから、表現の圧殺を求める主張を好きなだけぶつけてよい」と考えているかのような一部の人の態度については、今後も批判していくつもりです。

下記は私が3年前に書いた記事です。

私は「あえて」という感覚も込めて、「本を撤去するしかないほどの批判には与しない」という立場をブコメで示していますが、実際のところ、ちょっとやそっとの批判では「撤去するしかない」とまではならないとも考えています。

魚入りのスケートリンクの話題でも、私は「表現の自由」を擁護する立場を取りましたが、多くの批判が魚入りスケートリンクを撤回させたことを、「表現の自由の侵害」とは考えていません。突っぱねることも可能だったろう、と考えるからです。

ただ、ここしばらく、批判が集中して、自主的に表現や主張を撤回する事例が多いという印象はあります。個別に見れば、どれもやはり強制とまではいえず「自主的な判断」の範疇だと思えるわけですが、たまには「突っぱねる」事例も出てこないと、「いや、現代の日本社会ではjこれは事実上の強制なんだよ」という解釈が、実証的に説明できてしまうような気もしていたのです。

その意味で、アパホテルの対応には、個人的にはホッとしました。というのは、私だって「これはおかしい」と思うものは批判したいわけで、それに対して「強制だ」「抑圧だ」といわれたのでは、困るからです。