愚行権

id:zuiji_zuisho 何がわからないのか不明。とくに「被害者仕草と同じに見える」は全く意味がわからない。なので、以下で説明になっているかどうか心もとないですが、簡単に書いてみます。

私の認識では、「自由が最優先で、結果は相対的に重要ではない」とする考えから導かれるのが、「愚行権」です。

例えば、どんなくだらない宗教でも、信じるのは自由だと考えます。科学的根拠のないものを、「科学的に効能が証明されている」というのは詐欺だけれども、「神様がこういっている」なんてのが客観的事実でないことは自明。それを信じた人が「騙された」と後でいっても、私は何も同情しない。愚行権を行使しただけでしょ、と。

私は、くだらない宗教を人々が信じないように、賢い人々が手を回してあれこれ指図をし、従わなければ𠮟りつけ、実質的に強制力を発揮して「不幸な結果」を防ごうとすることに、大反対なのです。愚行権は大切な大切な自由権であって、特別に定めた例外を除き、侵害してはならない。

例えば、生活保護費をどんな娯楽に注ぎ込もうと勝手であり、生活保護費の使途はパチンコでも何でもいい。それで飢えて死んでも構わない。当人も望んでいないのにパチンコにお金を使ってしまう、だから助けてほしいという話なら、私は支援を支持します。ギャンブル依存症の克服は個人では難しく、公的支援は妥当でしょう。でも、当人が望んでもいないのに、勝手に行動を制限し、ギャンブル依存症の治療を強制することには、反対です。

栗城史多さんのエベレスト登山への挑戦は、「なぜ止めなかったのか」「容認した人は殺人に加担したのと同じ」とか批判されましたが、私は「無謀な挑戦をしたければ勝手にどうぞ」という考え。それで死のうが、当人の自由。周囲が当人の幸せを思って「当人が望むことを強制的に止める」ような社会に、私は暮らしたくない。栗城さんが好きに生きて、自らの愚かさゆえに死ねる社会で本当によかったと、私は思っています。

人生相談も同じです。どこの誰に相談するかは、当人の自由。何の解決にもならない相手に相談するのは「よくない」、何も解決できないのに相談募集している連中は「悪い」、という考え方に、私は与しない。

民間療法も同様です。病気を治せない民間療法も存在してよく、それを信じたい人は信じればいい。ウソや誤りは指摘すべきで、詐欺は悪い。しかし、民間療法が病気を治す役に立たないこと自体は、問題ではない。「効果の実証されていないオマジナイ程度のもの」という正しい認知のもとでさえあれば、すがりつくのは当人の自由。効果の実証されている医療に背を向けて、結果的に寿命を縮めようがどうしようが、全然構わない。自分の命くらい、自分の好きにしたらいい。

上で例外について述べました。例えば、子どもへの医療ですかね。義務教育修了までは、「当人の意思を尊重しない」という社会制度でも、仕方ないかな、と思う。でも例えばイジメについて、10歳くらいから、窃盗とか強盗とか器物損壊とか傷害とかで刑事罰を科すべき、というなら、同じ年齢から愚行権も認めてほしいところ。

で、もう一回、人生相談に戻るのだけれど。

cakes にせよ、新聞にせよ、人生相談しても、まず回答をもらえるのは例外で、運よく当選したって、ただ適当な字数でコメントが貰えるだけでしかないことは、誰の目にも明らかです。cakes も新聞も、「うちに人生相談したらみんな幸せになれる!」みたいなことを謳ってはいない。仮に謳っていたとしても、その宣伝文句に何ら裏付けがないことは、読者として自明ではないですか。ああ、こんなもので人生救われないな、と、読めば誰でもわかる。

わかった上で、それでも相談しようと決めるのは、全く当人の自由だと私は思うわけです。それでやっぱり何も解決されなかったとして、だから何なのか。相談されたい人がいて、相談したい人がいる。なら、それでいいじゃないか。結果として、問題が解決しようがしまいが、どうでもいい。

「人の自由を縛る」のは、私の価値観において「最大級の悪」であり、「役に立たない」なんてのは、「最大級の悪を為していい理由」としては、あまりに過小です。