新型コロナ 雑感

私個人としては、コロナとの戦いを諦めた場合、死亡リスクが高い地域においてパニックが起きると考えており、その意味でも首都圏や大阪は少なくとも緊急事態宣言を行うべきだと考えています。

 死者が高齢者に集中することは既に判明しており、「死のリスクが均等でない」状況で、低リスクの者が多数決で「対策せず」と決めてしまうことの倫理的問題は、新型コロナに関して、確かに存在します。

その点は認めます。

ただ、それは確かに褒められたことではありませんが、「私たち」は長年、世界中の貧者を見捨ててきました。ハイリスク群を「自分とは関係ない」と見捨ててきたのです。飢えもマラリアも、命の危機であることにかわりはありません。

私は長年、国連WFPに寄付を続けています。日本人が収入の1割を提供すれば、日本人だけでも世界を飢えから解放できます。しかし自分も、5%を寄付するのがせいぜい。貯金は積み上がっているのに、収入の10%の寄付には、なかなか踏み切れない。

たかが「豊かな暮らし」のために、本当は助けられた他人の命を、どれだけ見捨ててきたのか。

いい人のつもり

いま経済封鎖なんて政策に支持が集まるのは、所詮、自分の命にも危険が及んでいると思うからに過ぎない。私はそう確信しています。今更、倫理によって経済的損失を甘受すると言い出すなど、二重に自らを偽り、己の冷酷から目をそらして「いい人のつもり」になるがごとき所業だと思います。

例えば、結核。身の回りから結核患者がいなくなったらそれで満足して、世界では今も毎年約150万人が亡くなっているというのに、ほとんどの人が知らぬふりをしてきました。新型コロナのために経済封鎖までやれるというなら、その10分の1でも経済的負担をすれば、死者を一桁は減らせるだろうに。

時々、思い出したように「経済より命」みたいな主張に目覚める人々は、それ自体は素直な気持ちの発露なのでしょうが、本当は何も目覚めてなどいない。たまたま目の前までやってきた命や、死のリスクに、驚いたり怯えたり勝手に感動したりしているだけだと思う。

見ようとすれば、いつだって見れたはずのものを、なぜ見てこなかったのか。どこか遠くの話として切断し、失われゆく命のために、何もしない。本当に、何もしない。それは何故なのか。

もっとたくさんの命を救ったらいい

日本の人口のたった1%を救うために経済封鎖までやれるというなら、経済を回して、たくさん稼いで、その10倍、100倍の命を救ったらいいのに。

目下、飢餓人口は約8億人。日本人が本気を出せば、日本1国の力で、全員を飢えから解放できる。その程度の問題です。よその国が救世に無関心なことは、どうだっていい。日本単独で、世界中の命を救ったらいい。

でも、どうせやらない。私も、せいぜい収入の5%を寄付するだけ。

これまで幾人もの命を見捨ててきた私は、今後も無数の命を見捨てていく。

いま日本で、世界各国で、人々は「例年の2倍の死亡率」など受け入れられず、パニックが起きている。経済停止など、正気の沙汰ではないが、圧倒的多数が支持して実現しようとしている。

私からすると、そんなこと、やった時点で人類の負け。ウイルス自体の被害より、断然大きな被害を、自ら作り出すことになる。長年、自分が「それを守るためなら遠くで人が死んでも知ったことではない」と判断してきた、その何倍もの経済的価値を、自ら進んで差し出すというのだから、およそまともな判断とは思われない。

本来、新型コロナの直接被害で社会は崩壊しない

スペイン風邪では、第一波の死者の99%が65歳以下でした(アメリカのデータによる)。

働き盛りの世代を中心に人口の1%が短期間に失われ、それで経済が崩壊したかというと、別にそんなことはありませんでした。「運よく崩壊しなかった国もあった」のではなく、「スペイン風邪によって崩壊した国はひとつもなかった」のです。

「たった1%」の命が消えたくらいで、社会は崩壊などしません。学校でいえば、1年の間に、2クラスから1人が転校していなくなる程度の話。多少のことは起きるにせよ、さざ波です。

例年、人口の1%が亡くなります。その影響は、決して大きくない。最近10年間に、自分の周囲で亡くなった人の顔を思い浮かべてほしい。今年は、もう1人、「誰か」がその列に加わる。それだけのことです。大量死は、集団免疫が形成されるまでの一過性のもの。毎年、従来の2倍の人数が亡くなるわけではありません。

生産性の向上が年率1%程度。人口の純減が上回れば、差し引きで経済のプラス成長は望めない。けれども、それは単なる不況であって、「崩壊」というようなものではないでしょう。

火葬場が24時間営業になり、葬儀場も満杯になる。その辺は、まあいい。

おそらく病院が、最大の焦点になります。平時なら受けられた治療が、受けられない。ふだんなら助かった命が、助からない。理由は不明ですが、人は、そういうことが耐え難いらしい。

キャパオーバーなんだから「仕方ない」じゃないか。ふだんの5倍、10倍の患者が押し寄せても大丈夫な準備なんて、維持コストが高過ぎて不合理。健康保険料をもっともっと上げて、ふだんは週休5日でも病院経営が成り立つようにしておくなど、不可能です。

いや、だから、都市封鎖でも何でもやって、感染を抑制するんだ、キャパオーバーを防ぐんだ、と。

でもそれは、私からすると、「健康保険料をもっともっと上げて……」という話と同等の無茶です。ただ、前者は後から言い募っても無駄ですが、後者は「パニックになってから」でも実施できるのが問題。

かつてスペイン風邪を乗り切った人類が、新型コロナでは「医療崩壊」を受け入れられないとすると、人類もずいぶん傲慢になったものです。「たかが感染症」に殺されるのが、そんなに許せないか。「本来なら、こんなことで死ぬ私ではないというのに」とでも思うのか。

パニックが起きると脅して戦争を始めた先に

本当に新型コロナで社会が崩壊するとすれば、それは、人類が自ら不幸を生み出すせい。

でも、不幸の元凶はみな、「悪いのは新型コロナだ。自分は新型コロナと戦っただけだ」と胸を張るのでしょう。

戦争などするな、白旗を上げろ、その方が被害は小さい、という主張など、顧みられはしない。

「放置すればパニックが起きる」と脅して戦争を始めた先に、何があるのか。

たぶん、何もない。真に戦うべき相手はパニックの方だったのに、そこから逃げて、新型コロナを相手に無謀な戦争を始めても、茫漠たる荒野しか待ってはいないと思います。

結局のところ、というならば

「結局のところコロナ対策を行うことになる以上、対策を行うのは早いほうがよい」というのには理があると思い、紹介させて頂きました。

結局のところ、というならば、私は「封じ込めは失敗する」と思っています。

これが、私の主張の基礎条件です。

私の予想に反して封じ込めに成功するなら、たいへん結構。どうせ人の命の価値など平等ではない。いま自分が関心を向けている命さえ助けることができたなら、経済に大被害が出ても満足の内という方が多いのでしょう。

私自身は、封じ込めに成功して最大100万人が助かったって、経済停止のようなことまでしたら損失と釣り合わないと思いますが、多数派はそう思っていない。

そんな多数派も、莫大な経済的損失を被ったにもかかわらず封じ込めに失敗し、結局は放置した場合と大差ない人数が亡くなったとしてもなお、「封じ込めに挑戦したのは正しかった」というのかどうか。うん、まあ、そういうんだろうな。反戦派としては、たまらないことですが。

無謀と思っても挑戦せずにはいられない、それが人間だ、仕方ないんだ、という話なら、私も同意します。「仕方ない」とは、思っていますよ、私も。ただ、残念です。

追記:

Twitterで、コロナ患者の治療に携わる医療従事者が、経済封鎖を訴えているところを見ます。彼ら彼女らの多くは、感染リスクに怯えながらも、自身の仕事を全うしており、私は彼ら彼女らに大きな敬意を表します。

異論はありません。

人々には、飢える人々のために寄付しないという利己的な面もあれば、職業倫理のために自分に降りかかる命のリスクを受け入れるという利他的な面もあります。人々の利己的な面のみを強調し、そのような利己的な面を敷衍することで、「たかがこの程度の数の命のために経済封鎖をするなんておかしい、それは己の日頃の冷酷さに目をそらしているだけ」という主張につなげるのは(中略)極論だと、私の目には映ります。

「だけ」というから(下記の目的に照らしても無意味に攻撃的な)極論になるわけで、そこは私の「言葉の上滑り」と認めます。

ただ、極論を書くこと自体は、有意義だと思っています。

「議論の幅を広げる」のは、極論の効用のひとつです。穏当な主張では見えてこない、本来の対立点を明確にするためにも、極論は有用です(小手先の議論で折り合いをつけるにせよ、根幹には原理的な対立があることを示したい)。

例えば「対策か、経済か」ではない - アスペ日記の文章は、極論を述べている自覚があるようには見えません。1918年のスペイン風邪の時、インフルエンザウイルスは未発見でしたが、微細な病原体が感染症の原因であることはわかっており、人と人との接触を制限すれば感染抑制に有効なことも既知でした。けれども、ついに人類は経済停止には踏み切りませんでした。「人類は必ず封じ込めに突き進む」というのは、過去の事例に合致しない、極端な前提です。

でも、大勢が「さもありなん」と思うと、極論が極論と認識すらされない。その錯誤から人々を引き剥がす方法はいろいろあるでしょうが、「別の原理」を提示するのも一手段だと思います。

まあ、私がうまくやれているとは思わないし、そもそも、私がいうようなことはみなわかっていて、「悪を背負って生きる」程度のことは常に実践されているのかもしれない。言葉の中に明確に「後ろめたさ」が観察できなくとも、それは「全ての気持ちを言葉にするなど不可能だから」「言葉にする必要を感じないことだから」なのかもしれない。 

  • 自分が、これまでずっと命と経済を天秤にかけてきたこと
  • 自分が、これまでずっと命を平等に扱ってこなかったこと
  • 自分の中にも、どこかに「命の損益分岐点がある」こと

これらを自覚した上で、「新型コロナ対策のためなら都市封鎖や経済停止までも支持する」のであれば、「私は反対」という他に、いいたいことはありません。

上記の前提が共有されていれば、「他者の命の価値」に自分がどう濃淡をつけるか、その判断基準の差異が、結論の違いをもたらすのだと、お互いに了解できるはずだからです。