自分が死ぬ前提だからこそ、経済停止には反対だ

スペイン経済原則停止へ 30日から4月9日まで | 共同通信

「感染拡大を放置する方がマシ」これ自分が死なない前提なの人間の性なんだよな

2020/03/29 10:19

よくある誤解だ。

私からするとむしろ、ふだん自分が死ぬことを考えていないから、新型コロナのような「目先の関心事」に過剰な対応をしようとするのだ、と思う。

平素から自分が死ぬ可能性について関心を向けていれば、人命保護に関するおよそありとあらゆることについて、経済性の観点から制約がかかっていることに意識的になる。そして、この状況をどうにかできないものかと思い、自分なりに勉強してみる。

すると、結局、一部においては今よりもう少し人命保護寄りに状況を変えることは可能だとしても、ほとんどの分野において、劇的な状況の変化は非現実的だと思い知らされるはずだ。

歩車分離を徹底し、免許の交付も厳格化すれば、交通事故は大幅に減らせる。しかし、歩車分離を徹底できる道路など限られており、自動車がそこでしか使えなくなれば、およそ自家用車の利便性は大幅に損なわれる。過疎地、僻地からの強制移住も不可避だ。交通事故を減らすために、何百兆円までコストをかけられるのか(強制移住の補償まで行うなら、何百兆円の単位には容易に到達する)。

インフルエンザウイルスは、毎年、海外からやってくる。徹底した水際対策を行えば、国内の流行を抑え込める可能性がある。水際で止められなくとも、外出自粛、外出禁止、都市封鎖、究極は経済停止まで、断固として実施すれば、年1万人超とされるインフルエンザ関連死の多くは防げる可能性がある(暖かくなると流行が止まるウイルスなので時間稼ぎが有効だ)。

おたふく風邪や麻疹でも、毎年、少数ながら人が亡くなっている。ワクチン接種を徹底し、感染者が一人発見されるたびに感染経路の調査、感染者の隔離、関連先の消毒を徹底して行えば、撲滅できる可能性がある。おたふく風邪のムンプスウイルスには未解明の点が多いが、麻疹ウイルスの自然宿主は人間以外に見つかっていない。

新型コロナだけ、必死に対応しようとする人々は、他のほとんど全ての危険について、忘れているのではないか。だからこそ、一点集中で全リソースを投入することを望むのではないだろうか。

自分を取り巻く種々様々のリスクに、なぜ社会は十分な対処をしてくれないのか。答えは、わかっている。「十分な対処をするだけの、経済的な余裕がない」のだ。

そして命の価値は、「基本的には命そのもの」といいたいが、実際のところ、社会を構成する全員が「ただ生きているだけ」ではどうにもならない。大多数の人が「生きて何をするか」を命の価値としないと、この社会は、今はまだ成り立たない。

自動車が「その利便性によって自ずと歩車分離の道路を整備できるだけの富を生み出す」という夢物語は実現していない。かといって、自動車の利便性を捨てることもできない。結局、交通事故の危険がゼロではないこと、物理的にはもっと徹底した対策は可能なことを認識しつつも、あえて現状程度で踏みとどまり、一定の危険と共生する道を私たちは選んだ。

ただ生きるだけで私たちは満足せず、より便利で楽しい人生を過ごしたいのだ。そのためなら、交通事故の危険とも共生するのである。

人と会って話す、人と一緒に暮らす、というのもそうだ。その方が人生が充実すると思い、リスクと共生する選択をしている。

オフィスに通勤するのも、より生産性を上げることを、病原体をお互いに感染させ合うリスクより優先し、たくさん稼いで、面白おかしく人生を生きたいがためだ。

「生産性が落ち、コストがかかり、給与が減ってもいい」という条件を飲みさえすれば、リモートワークが可能な領域は、相当に広い。それでもリモートワークしたいという人が十分に多ければ、リモートワークは普及するはずだ。会社は儲かればいいのであって、社員の給与減で帳尻が合うなら、リモートワークを嫌がる理由がない。

リモートワークがなかなか普及しないのは、端的には、人々が自分の収入について「今より減ってもいい」とは思っていないからだ。

そうして経済発展を目指し続けている社会で、ようやく保険衛生、医療が充実した。現代の医療は、経済の基盤なしに成り立たない。「命さえ守れれば、経済なんて」みたいな言説は、ごく短期間においては正しいが、3ヵ月、半年、1年と長く続くほどに、「経済を維持することこそ、命を守ること」になっていく。

新型コロナが人類存亡の危機であるならば、どんな犠牲も厭わず、やれることをやるしかない。屈服したらどのみち滅びるのであれば、他に何を考えても仕方ない。

が、新型コロナは、そういう病気ではないことがわかっている。最大限の見積もりでも総人口の数%が死ぬ程度で、おそらくはスペイン風邪(総人口の1%)が現実的な目安になる。もちろん、個々の死者にとっては、それが全てだ。死んだら終りだ。しかしそれは、交通事故の死者だって、インフルエンザや麻疹による死者だって、同じではないか。

それでも、総力戦をやるのか?

イタリアとスペインは、「やる」という決断を下した。

新型コロナウイルスが「現実的な対策の範囲内」での封じ込めが非常に難しい病原体であることは、1月の段階から指摘されていた。そういわれても封じ込めを諦めきれない世論が明確になり、感染者増に直面して、イタリアもスペインも経済停止にまで至った。

心配されていた「非現実的な対応」による社会へのダメージはどうか? スペインはこれから始まるので、まだわからない。先に始めたイタリアもまだ、社会に様々な「貯金」があるから、どうにかなっている。だが、終息の兆しは、10日程度では見えてこないようだ。

まあ、もう少しだけ我慢すれば、終息するかもしれない。流行の再燃も、運よく、ないかもしれない。多大な犠牲を支払ったのだから、よい結果になったらいい。

でも、終息しなかったら?

私は、封じ込めを目指すのは、1941年12月の対米開戦のようなものだと認識している。天祐で勝てないとも限らないが、敗色濃厚となったら、不本意でも共生の道を歩むしかない。

勝てない相手と戦わず、最初から共生の道を選ぶ方が、戦争を仕掛けてから方針を改めるより、よい結果になると私は思う。戦争の犠牲ゆえに、戦争は容易には止められないからだ。経済に大きな傷を負ったからには、封じ込めが成功する可能性が僅かでも残っている間は、人々はそれを諦められない。

とはいえ、世論は封じ込めを支持した。日本でも、いずれ感染者が今のイタリアやスペインより多くなるだろう。そのとき、まだイタリアとスペインが持ちこたえていれば、日本も経済停止に踏み切るに違いない。

圧倒的多数が支持しているので、新型コロナと戦争を始めるのは、民主主義的に仕方ない。やるからには、私が予想するほど新型コロナの封じ込めは困難でなく、賭けに勝って封じ込めに成功することを望む。

が、負けが明白になっても食い下がるのは、なしにしてほしい。「もう少し頑張れば勝てる」と奇跡にしがみついて社会を破滅に追い込むのは、やめてほしい。先の戦争が「ご聖断」まで止められなかったのは、軍部が愚かだったからであって、有権者はもっと賢いのだと、「そのとき」がきたら、証明してほしい。

繰り返しになるが、どうせ戦うなら、「そのとき」など来ず、人類が見事に勝利し、戦いに反対した自分が袋叩きにあって終るのが、いちばんいい。それは当然だ。

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