差別は「程度の問題」でしかありえない

100字でうまく書けないのでこちらで。

事故ゼロを合理的に目指せるなら、目指すだけのこと。建設現場や工場では、合理的な範囲内で事故ゼロを目指すことができるんだから、そうしない理由がない。

でも例えば、自動車事故ゼロを目指して赤旗法を復活させようという主張に賛同されます? 殺人事件も同様で、本気でゼロを目指したら自由の失われた管理社会しかありえない。

差別も同じこと。あらゆる差別がダメというコンセンサスは得られないと思う。ハゲ・デブ・チビなど容姿に関する差別とか、完全にゼロになんてなるものか。「ここまではジョークのネタにしていい範囲」みたいなラインが、必ず残る。

いや、ゼロにできるはずだと仰るならば、それは必ず自己矛盾しますね。人間だもの。kutabirehatekoさんに限らず、誰もそんな条件では生きられない。

これに対して、「**は差別とはいわない」などといい逃れるなら、それは言葉の定義の方で線を引いただけのことでしかない。差別の構造をゼロにしたわけじゃないんです。

容姿をジョークの種にすることを全否定しても、フィクションの世界で大多数のヒーロー、ヒロインが「容姿に優れる」(とりあえずカッコを付けておきます)ように描かれるなら、差別の構造はなくなっていないことは了解されるでしょう。人にあらゆる面で何ら優劣をつけないという社会は、人間には作れないと思いますよ。

格差も同様です。どんな格差も許せない、機会の完全平等を求めるというなら、まず日本人のほぼ全員が、世界の格差を解消するために資産を再分配されてもいいという覚悟が必要です。

日本人という枠の中だけで再分配を求めるなんてのは、格差も差別も認める発想の上にしか成り立たないのは明らかでしょう。

私は小学生の時にフォスターペアレントになって、形式的に自分のもらう小遣いとお年玉の半分をネパール在住の自分と年の近い子に送っていましたが、「日本人であるだけでいかに恵まれているか」ということは深く心に刻まれました。

何せ世界にはまだ絶対的貧困が多々残っているわけです。私は収入の5%しか寄付していないので、偉そうなことをいうつもりはない。「その程度の再分配しか自発的にはできない自分」を認識しているつもり。

それでもね、格差の解消がどうのという人らは、私有財産の供出を自分がどれだけできるか、ちゃんと向き合っているのかよ、とは思いますよ。食うにも困る人がいるわけでしょ。自分より明らかに貧しい人々がいる。それを知っているわけでしょ。で、どうなんですか。年収の1%でも寄付できるのか、と。

それができないっていうなら、なんで政府を経由しての再分配なら平気で求めるのか。自らも世界規模の格差社会の圧倒的な受益者でありながら、「生活の苦しさ」ばかり訴える人々に、私は全然共感しないし同情もしない。そして格差は解消できるものだとも思えない。

自分は貧しい、助けがほしいと思う、その当人が、もっと苦しい人と助け合おうとしない。人間なんて所詮その程度のものであり、自然、実現可能な格差解消など高が知れていると思いますよ。世界の絶対的貧困も解決できないで、日本国内の相対的貧困など解消できるわけがない。

それはそれ、これはこれというなら、それが差別でなくて何なのかと思う。差別はあるし、格差もある。人間を人間でなくすほどのことをしなければ、それはなくならない。可能な範囲で、やるしかない。

追記(2016-09-05 23:18:03)

すごく簡単に書きますから、話を理解してほしい。もちろん同意はしなくてもいいですけど、初っ端から話を誤解されているのはどうにかなりませんか。

私は、「0か1か」じゃなくて、「できるところ」までで線を引きましょう、といっているんです。

人間にできることには、所詮、限界があります。

「殺人事件ゼロ」はおそらく相当な未来にも不可能だし、「交通事故ゼロ」も当面は不可能です。

スローガンだけ「ゼロを目指す」というなら、まあいいですよ。でも、いま本気でそれを実現しようとすれば、ディストピアにしかなりません。

「差別ゼロ」も、同様。「許容していい差別などない」とか、カッコイイこというのは個々人の勝手ですが、そうした言葉で一方的に他人を非難できると思っているなら、自己矛盾に頬かむりしているだけです。

例えば格差の解消をいうとき、なぜ世界の絶対的貧困をさしおいて日本国内の相対的貧困を取り上げるのか。そこに「差別はない」と本気で思うなら、欺瞞でしょうよ。日本人を区分して優遇する理由なんて何もないわけであって。

差別も格差も、人間にできる範囲で解消していくしかない。そして、我が身を顧みれば、大したことができないのは自明です。

kutabirehatekoさんは私よりいろいろなことができるかもしれませんが、それだって程度の差です。やれる範囲でやるしかないのであって、まあ言論の自由を行使して「0でなければ1だ」「あなたは差別者だ」と誰を批判したってそれはいいですけれども、そうして他人を居丈高に非難して、そこに自分の限界を踏まえた惻隠の情がないように見えるなら、私はそれを見て不愉快になりますね。

追記(2016-09-05 23:37:55)

はてブIDコールにこちらで応えますけれども。

殺人事件を減らそうとする試みも、いい加減、社会的コストが効用を上回ってきています。小学校の校庭が地域社会に対して閉じられてしまった損失と、犯罪抑止の効用と、どちらが大きいか。私は、大して効果もないのに、安全安全といって、もっともっとと対策を上積みしようとするヒステリーを支持しない。

防犯パトロールとか、これ以上強化するコストって、それで減る犯罪の量で釣り合うんですか?

そして、本気で犯罪ゼロを目指すなら、パーソナルな防御システムが十分に進歩しない限りは(これは当面、実現しそうにない)、『マイノリティ・リポート』のような社会しかありえない。まだやってもいないことで個人の自由が失われる社会です。

ある意味、答えは見えているんです。全人類を管理下に置けば、現行の科学水準でも単純粗暴犯罪の抑止はできます。でも、やりませんよね。功利主義的には、デメリットの方が大きいんだから、やらない理由は明確です。リベラリズム的にも、まあ明確でしょう。殺人は究極の人権侵害だとはいえ、年間1000件の殺人を防ぐために全員の人権を大幅に抑止するのは正当化できないわけです。

防犯は「やってメリットのある範囲内でやるべき」であって、本気で全力を尽くしてはいけない。犯罪ゼロ一点集中で全ての可能な施策を投入すれば、ディストピアになります。やれるけど、やってはいけないんです。

追記(2016-09-06 01:37:17)

何で話が分かんないのかな。フィクションで、犯罪のない社会を作ろうとしてディストピアになる作品を見たことないんですか? いっぱいあるじゃないですか、そういうの。

交通事故の方では赤旗法を例に挙げましたよね。論理の飛躍じゃないですよ。現実に、かつてイギリスでは交通事故をゼロにするために、赤旗法を制定したんです。人が旗をもって自動車の前を歩くことを義務付ける法律です。そうすれば自動車は人が歩くより早く動けないし、交通事故は(ほぼ)発生しなくなります。

本気でゼロを目指すってのは、そういうことなんです。不可能なことでも、飛躍のある対策でもない。自動車の動く速度を下げよう、自動車が来ることを明確に示そう、そうすれば事故はなくなるよね、という自然な発想で赤旗法は作られたんですよ。

でも、イギリスは、その社会的コストに耐えきれなかったし、他国もイギリスをみて、赤旗法はダメだなと思って真似しなかった。それで交通戦争による大量死を「許容」したんです。

どこまで許容するか。それは「可能な範囲」でしょう、と。「0か1か」ではない。

犯罪の抑止も同じ。全員の自由を制限する管理社会なら、単純な粗暴犯は完全に抑止できます。できるけど、やらない。別に飛躍なんかない。極端な管理社会なら犯罪を抑止できる、問題は何をどこまで管理するか。「程度の問題」なんですよ。

監視カメラの増加はプライバシーの喪失につながっている。犯罪抑止のためなら監視カメラの増加に賛成できるかどうか。例えばそういうこと。犯罪抑止最優先で突き進めば、監視カメラの件と同様に、どんどん自分で自分を自由にできる範囲が狭まっていくんです。この話に飛躍があるというなら、どこに飛躍があるのか、どこにジャンプがあるのか教えてほしい。

グラデーションでつながっていると思うから、多くのSFがこの問題を題材にしてきたんじゃないですか。明らかな段差があるなら、そこで立ち止まればいいってだけの話になるでしょうよ。

追記(2016-09-06 02:02:09)

共感じゃなくて、人の話を「理解」してほしいと思ってるわけですよ。「誤解」したまま反論されても困るというか。

映画俳優の件は、言葉足らずを補えばこういうことです。

「美男」の役でもないのに、映画の世界では美男が演じる、ということがよくありますよね。『ごくせん』の主人公は目立たない容姿という設定なのに、演じていたのは仲間さんでした。

で、そうしたことを「当然」だと思い、やっぱり平凡な容姿という設定でも、主人公を本当に世間の並程度の容姿の方が演じたらウケない、という状況があるとしたら、それは「好悪」だから「差別」ではないという主張って、本当に成り立っているんですか? ということです。

「俳優だからいい」「芸能界はそういうところ」といって切断しているだけで、差別の構造はそのまま存在しているってことです。

「その仕事に顔は関係ないでしょ」といってきたのに、「美男の役でもないのに、明らかに美男が有利の配役環境である」なら、差別的な労働環境ということになるでしょう。観客が「好悪」で決めていいなら、新作の『ゴーストバスターズ』が女性配役で非難されたことに、差別問題は関係ないってことになる。ハリウッドの白人偏重も、観客の好悪なのでOKになる。

そんなわけあるか、と私は思いますけどね。でも、だからといって、全部差別だから許容しない、可及的速やかに差別を解消しろ、みたいなことを私はいわない。漸進的にコンセンサスを得て社会を変えていくしかないだろう、という。

追記(2016-09-06 02:36:03)

話の単純化に乗ってここまできたけれど、例えば殺人だって、本当は一律否定じゃないですよね。「正当防衛なら許容」とか、「緊急避難として許容される場合もある」とか、「死刑執行は許容」とかですね。

最初から正義のラインは「程度の問題」で決められているんですよ。殺人なら全部ダメ、なんてことにはなってない。あらゆる論題を程度の問題として処理し、どこかに線を引くという形で法律は作られて、運用されているわけです。殺人はほとんどがNGになるよう端の方に線が引かれているし、名誉棄損とかは自由を相当程度認める位置に線が引かれている。

そして「基本的に殺人はダメだが、一部例外もある」という線引きは、形式的には民主的に多数決で決まった、ということになります。(多数決で決まったことは正しい、という話をしているのではない)

なぜその線引きが正しいのかということは、功利主義でも共同体主義でも説明できる。社会契約論だと、いまいちよくわからない。

リベラリズムでは理性に基づく判断は一意に定まってそれを一般意思というんだと主張するけど、実際には各論者の意見は一意に定まらなかった。じゃあ理性なんてのは空論ではないかという話にもなって、まさに共同体主義は、理性の正体は各個人の価値判断でしかないといった。だから一人一人の理性的判断は一致しないのだと。

ま、一般意思というのが仮にあって、世論の大多数が反対しても、それは正しいんだと、そして現在の法はその一般意思を体現しているのだと、仮にそうみなすなら、法は無謬ということになりますが。実際には一般意思は不明確なので、議論を通じて一般意思を見出していくしかないが、それは結局、選挙の肯定につながり、間接民主制によって直接民主制のような単純な多数派の専制を排除しつつ、理性による判断を実現しようとした。

他方、功利主義共同体主義も選挙を肯定できるから、呉越同舟で選挙を通じた民主主義にみんな乗っかっているわけです。

で、差別も格差も殺人と同様に「0か1か」ではなく、「これは許容できない差別」「これは国の責任で解消すべき格差」というように法は線を引いているわけです。

ただし差別については、明らかにNGという事例はいくつかの法に示されているものの、これくらいはOKというラインは不明確になっています。「ハゲを笑う」程度の差別は、いくつかの条件が揃っていれば許容(一律に許容、ではない)、というあたりが現在の多数派の認識でしょうし、法もそのように運用されていますよね。

功利主義的には人々の価値観は変動しても全く不思議ではなく、その時々の判断で法律は変わる可能性がある。双方の当事者に同意があっても「ハゲを笑う」のは禁止、という未来だってくるかもしれない。共同体主義も同様。リベラリズムも、今後の話し合い次第で、やっぱり過去の議論には誤りがあったということになり、「ハゲを笑う」のは差別なので禁止、となってもおかしくない。

いずれの場合も、世間の多数派が意見を変えていないのに、国会で線引きが動かされる可能性を否定していません。

追記(2016-09-06 02:49:27)

法律も国家も、功利主義でも共同体主義でも存在意義を説明できるので、社会契約論に則った法律観が唯一絶対のものだと、ふつうの法律の教科書は書いていないはずですが。あくまでひとつの意見として、登場するのが、まともな解説書だと思いますよ。

例えば日本国憲法の平和主義は改訂可能か。形式的には可能。でも、まさに仰るような論理でもって、平和主義は日本国憲法の根幹であって、国民世論の多数意見であっても絶対に改訂できないとする主張もある。でも、その解釈が唯一絶対だなんて解説する本は、やっぱり偏っているというか、一面的です。

少なくとも、そういう主張に反対する意見に対して、「呪術社会」だの「国家以前」だのといった修辞でくさす解説書がもしあるとして、マトモだとは思えないですね、私は。

追記(2016-09-06 08:01:08)

あの、そもそも出発点ははてこさんの記事ですけど、あれって法律上自明のことを主張されている記事ですか? 私には明らかに、尖った主張に見えましたけどね。

差別も格差も、現行法は一定以上の差別、一定以上の格差しか、国家が対処すべき問題として扱っていないと思いますけど。つまり、コンセンサスが得られている領域は限定されているわけです。

で、そのラインを今後の世論が上げ下げするんでしょう。そりゃもちろん、実際には国会の議論によって上げ下げするわけですけど、そこに世間のコンセンサスが影響するのは当然です。

法改正に先行して、世論が政府の動きに影響を与えることは、基本的にはない。zyzyさんがおっしゃっているのは、ただそういうだけの話だと思いますが。

追記(2016-09-06 08:04:10)

功利主義共同体主義では、所詮、善悪など人々の考え次第なのであって、現状の政府の判断とコンセンサスに乖離が生じたなら、いずれその乖離は埋められますよ。法は世論に即応して変化しないので、タイムラグが生じるだけのことです。

追記(2016-09-06 18:22:35)

だからそれを分けるのは一般意思を信じる人の論法でしかない。功利主義でも共同体主義でも、現在のような間接民主主義は肯定できるから、幅広い正義の論理の支持者がひとつの制度に乗っかっているわけです。

共同体主義は、明確に「正義とは常識のことである」と説明してます。ある集団の文化、歴史、置かれている状況によって、正義はいかようにも変わるのだ、と。ただしコロコロと法律(国家権力行使の基準)が変わることを、人々は望んでいない。一定の慎重さを人々は支持している、と見る。

功利主義も、功利計算に基づくにせよ人々の選好に基づくにせよ、正義の原理を個人の主観の集合だと説明するのだから、正義は当然に随時変化します。しかし変わりやすい世論に政治が即応するのは弊害が大きい、と説明できる。

だからいずれにせよ、間接民主主義による「法律の変わりにくさ」、つまり選挙も法律も国家も肯定されるわけです。

社会契約論だけが法律と国家を支えていると考えるのは、間違いです。「世論だけですむなら、国家も選挙もなしに村八分のリンチだけでいいんですよ」みたいなことをおっしゃるのは、功利主義共同体主義を端っからバカにして、ちゃんとその主張に触れたことがないからだと思います。

はてなハイクより転載)