功利主義で人権を守れるのか

id:mkotatsu とくに mkotatsu さんのブコメがどうこうというわけではないのですが、一例として挙げさせていただきました。また、下記において「裁判」とは、刑事裁判および刑事裁判に準じる審判について述べています。

  • 日本国憲法 第37条

    第三十七条 すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。

    2 刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。

    3 刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを附する。

  • 日本国憲法 第82条

    第八十二条 裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。

    2 裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる。但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。

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何がより重要なのか、本当に原則を歪めていい話なのか。

被害者を匿名とすると、弁護側の対抗手段が、ザックリいって半減します。被害者がどのような人物だったか、どのような経緯で被害に遭ったか、第三者による検証が不可能になります。警察、検察が情報を独占することになる。

また裁判公開の原則は、有権者が司法を監視し、検証できるようにすることが目的です。被害者を匿名化すれば、有権者による検証が不可能な領域が、拡大します。(実際に監視が行われている必要はなく、検証が可能な仕組みであることが重要)

被害者が「じつは被害者ではない」場合というのは、さすがに少ないと思う。けれども、記憶が曖昧であったりする事例は、必ずしも少なくない。

例えば、弁護側が被告の無罪を訴えるため、アリバイを立証しようとする場合があります。この立証には2つの方向性があります。ひとつは「被告が、その時、その場にいなかった(一定以上の説得力がある)可能性」を示すこと。もうひとつは「被害者が、その時、その場にいなかった」……つまり必ずしも被害者が被害者であること自体を疑っているわけではなく、「少なくとも被告にかけられている容疑がそのままでは成り立たず、真犯人は他にいる可能性がある」と示すことです。

被害者が匿名では、弁護側は、被害者側の主張を検証できません。被害者側の主張にウソがあると決めつけているのではありません。人の記憶は曖昧だから、検証不能ではいけない、ということです。

とはいえ、少なからぬ裁判では、被害者側の主張を積極的に検証する展開にはなっていないようです。この場合、弁護側が同意すれば、当事者にとっては匿名でもいいのかもしれません。

しかし直接の関係者だけが同意すればそれでいいとは、言い切れません。

弁護士が「無罪を勝ち取るのは無理だ」と被告を説得し、諦めさせてしまう場合があります。国家権力が被告の人権を制約していいかどうかを決める裁判が、第三者による検証に開かれていなくて、本当にいいのでしょうか。被告が「それでいい」といったから、という理由で原則を枉げていいのか。

被害者の匿名化という選択肢ができたなら、いずれ「被告が被害者の匿名化に同意しなかった」ことが、被告が反省していない、あるいは反省が足りない理由として扱われてしまう日が来ます。

全くの無罪を目指す裁判はそもそも少なく、多くの裁判は「一定の事情を立証し、量刑を争う」ものです。そのとき、一方の当事者が匿名のままで十分な弁護はできません。被害者側の事情・状況について弁護側が何も確認できず、検察側の言い分だけが裁判に提出されるわけです。質問はできますが、答えの正確さを検証できないのでは、効果は限定されます。

「冤罪を訴えるのでなければ、全くの無罪だというのでなければ、被害者の匿名化に同意できるはずだ」という社会的圧力の中で、十分に公正な裁判が可能でしょうか。あまりに弁護側に不利ではないでしょうか。

裁判公開の原則は、それなりの理由があって存在しているものです。

原則を一歩も譲るべきでない、とは申しません。

現時点でも、日本では既に「匿名の証言者」を認めています。第三者による検証、弁護側による検証を拒絶する証言を裁判で許していいのか、大いに疑問はありますが、必要最小限の運用とすることで、弊害を最小化できている……のかもしれません。検証できない以上、事実はわかりようもないのですが、主権者の多数派が現状を肯定していることは確かです。

けれども、人権というのは「多数派世論が認めたからないがしろにしていい」というものではない。とくに刑事裁判は、多数派世論が過ちを犯しやすいことを歴史が示してきたから、世論から一定の隔離をする仕組みを採用してきたのです。

それが行き過ぎだとして、再び庶民感覚を裁判に取り込んでいこうとするのが近年の流れですが、私はよいことだと考えていません。世論はこの方向性を支持するに決まっているからこそ、原理原則でブレーキをかけていく必要があると思います。

少年事件等、全て非公開の裁判すら存在することを思えば、「特定の犯罪に関して被害者を匿名化するだけのことに積極的に反対する意味はない、被害者公開の弊害の大きさを思えば、さっさと推進すべきだ」といった意見が多数の支持を得るのは理解できます。

戦後いったんは原則ベースの改革が行われた裁判制度ですが、少しずつ主権者たる国民の意思に沿った方向へと改められてきました。

単純な多数決なら、政治が単純に人気取りの場なら、「特定の犯罪における被害者の匿名化」は、とっくの昔に実現されていたことだと思う。被害者の匿名化で救われる人がたくさんいることは、ブレーキをかけ続けた誰もが理解していることです。

幸福と苦痛の比較衡量をするなら、おそらく実現するのが功利主義的に「正しい」でしょう。

しかし功利主義で人権を守れるのか。原理原則を掲げることでしか、本当には人権を守ることはできないのではないか。

いや、被害者の匿名化こそ、被害者の人権を守ることだ、何を言っているんだ、と思われるかもしれません。

ここで反対する側が問題としているのは、「権力による人権の侵害」をいかに制約するか、です。権力が被告を犯罪者として罰する、その正当性をどう検証可能とするか、です。個人が個人の人権を侵害する話と、混ぜて話をするべきではない。

とはいえ、被告に被害者の氏名が伝わることは苦痛ですし、まさに権力がそれをやるのだから、これも権力による人権侵害だ、という意見も理解できます。被害者の匿名化を支持する弁護士さんがたくさんいるのは、そういうことだと思います。