それが差別であることまで否定したら、おかしなことになる

女性専用車両の話題について。

心の中で疑うだけならそれは内心の自由だし、疑いの気持ちを表に出すことも、まあ一定程度までは表現の自由といってもいいと思う。よくわからない人物について、その属性などを根拠に一律に悪い仮定を置くのは差別であって、それはよくないことだけれども、現実問題、ある程度まではそれを許容しなければ人間は生きられない。

だけど、それが差別であることまで否定したら、おかしなことになりませんか。

以下、mohnoさんがそうだという根拠など何もないので、このところ思っていることを、mohnoさんに向けて書いてもお門違いの話になりますが、とりあえず書きます。

  • 差別は絶対ダメだと考えている方がいる
  • 現実には何らの差別もせずに人は生きられない
  • 自分が許容している範囲内の差別は「差別ではない」とする
  • 自分のしていることは「差別ではない」ので後ろめたさなどないし、現状を改善すべきだとも思わない

なんかこういう欺瞞が、よくあると思っているんです。

例えば「憲法は合理的区別を認めている」の解釈って、大きく2つあるわけです。私は「憲法は現実的に人間の限界を考えて一定の悪を許容しているに過ぎない」と考えるので、「合理的区別は正しいので、何も後ろめたいことはない」と対立するのです。

「犯罪者の大半が男性なので、男性全体を犯罪予備軍として立入禁止にします。だって怖いからです。同じ車両に男性がいたら安心できないからです」というのは、差別でしょう。私は、それは自明だと思ってます(が、自明と感じない人がたくさんいることはわかってます)。

いま、はてブでは女性専用車両反対派として書いてますが、別に今すぐ全廃すべきだとは、じつは私は思ってません。ただ、差別は差別であり、悪に悪をもって対するの手法であり、そこに「悪を背負う」意識がないとおかしいと思う。

ヴィーガニズムの話題と、私の中では問題意識がつながっています。私はヴィーガニズムの支持者で、「食べていい命はない」と思っている。でも私は「食べずに死ぬ」ことができない。それどころか、私は肉食すら我慢できない。だから私はいろいろ食べて生きているわけですが、「自分に可能な範囲内で殺生は減らしたい、少しでも自分の罪は小さくしたい」と思っている。罪の意識があるからこそ、常に抑制が働いている。

どこかで線引きをして、「ここから先は食べてもいい命、食べることに何ら罪の意識を感じなくていいんだ」という考え方はしていない。まあヴィーガンにもいろいろあるから、みんなが私と同じだとはいわないけれども、「植物なら食べていいと思っているヴィーガン」という、はてブでされていた批判は、的外れだと思う。

で、何がいいたいのかというと、差別というのもこれと同じように考えているわけです。「ここから先はしていい差別」という区切りを私は認めない。どんな差別もダメなんだけど、でも人間の能力は限界があるので、差別はせざるを得ない。だからある程度の差別は許容する。でもそれは、「この差別はしていい」ってことではない。「いけないんだけど、する。だから罪を背負う」という向きあい方じゃないとダメだろう、と。

これは性犯罪を恐れる人だけに罪の意識を押し付けるという話ではないです。私は、はてブの文字数には収まらないからはてブには書いてないけど、実際には「女性専用車両も、当面はやむなし」と思っていて、それはつまり差別を許容するということだし、女性専用車両の廃止運動など今後もしないわけであり、私自身が当然に差別の罪を背負う。ただ、これはよくないことだと思っている。思っているからこそ、できる限りこの差別は最小化したいと思うわけです。「合理的区別なのでOK」と胸を張る立場の人は、何の罪の意識もないのだから、差別最小化の動機もないし、女性専用車両が半永久的に存続しても心が痛まないわけでしょう(痴漢犯罪がなくならないことには心を痛めても、その対策として女性専用車両を運用するという対策方法については心を痛めない)。

差別反対なら女性専用車両も差別だから今すぐやめるべき、といいたいんじゃないんです、少なくとも私の場合は。でも、女性専用車両のような手法について、何の後ろめたさもないように見える人々に対しては、「そりゃおかしいでしょ」と思うんですよ。それって、自分で掲げた正義を、自ら裏切ってませんか、と。それに対して、もし「そんなことありません。差別反対と、何ら矛盾しません」というのが回答なら、「私は、あなたの差別反対は不徹底だと思うし、批判する」となるんです。

女性専用車両は、差別批判を受け止めたうえで、「やむを得ない措置」として必要最小限に実施していくべき。私はそう考えてます。

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まあ、世の中にはもっと堂々たる「悪」はいくらでもいますよ。話が通じる感じが全然しないような。本来、批判するなら優先順位はそちらが上でしょう、と、私もそう思う。しかし私は、私の考える優先順位の通りに行動できない。これも自分の限界だけれども、だから仕方ない、とは思ってません。その点を批判したい方がもしいれば、何も反論はないですし、私自身、心にやましさは感じてます。

まあ第三者的には、やましさがあろうとなかろうと、本来は優先順位の低いことは承知の上で「女性専用車両の差別性」なんてものをくどくど書いて、「そのおかしさを批判したければどうぞご勝手に」と開き直っているだけです。そんなヤツのいうこと聞く耳持たぬ、という人がいても、それはそれで心情的にはわかる。

どう見られようと、私は私の限界の中で、やれることをやるしかない。物理的に可能ということと、現実に可能なことの差は大きく、なぜ実際のアウトプットがこんななの?というのはありますが、40年近くそれで悩んできて、結局ただ悩み続けることしかできなかった。

追記(2018-02-18 17:14:20)

私の意見を整理する。

まず、「施策の目的への批判」は、ない。

次に、「施策の方法への批判」について。

  • 「c. 施策の効果の是非」は、痴漢被害の総量を減らす効果があろうとなかろうと精神的効能はある
  • 「d. コスパやコスト負担のバランスの是非」は、とくに意見なし
  • 「e. 他のルールやポリシーとの衝突の是非」は、「差別含みの施策だが、諸々勘案して、許容範囲内」という受容のされ方であるべきで、「差別ではない」とか「より大きな問題を解決するためなら正しい」という主張には、与しない
  • 「f. 副次的な悪影響の是非」は、特段の悪影響はないと思う

結論として、女性専用車両自体は、現状維持で構わない。

私の関心は、社会がそれをどう捉えるか、という点。この件に限らず、恣意的に線を引いて、構造的には同じものを、「これは正しい。些細な批判も不当」と「断固、許せない。排除すべし」に峻別する人々には、憤りを感じている。なんて身勝手なんだろう、と思う。しかも彼らは、それを身勝手だとは認めない。まあ、いい。考えの違いはあっていいのだ。私は私の意見を書く。

差別の構造を持つ仕組みは、一律に「差別である」と認めるべきだ。そのうえで、「これは差別であって、本来は解消すべきだが、諸事情を総合的に判断すると、現状では許容」というのを、社会的なコンセンサスにしたい。そういう枠組みでなければ、価値観の多様化した社会において、共通の議論の基盤となりえないだろうし、ある問題に対処するために導入された手段によって生じる諸問題について、爆発するまで抑圧する体制が今後も続いてしまう。

女性専用車両についていえば、そんな決定的に悲惨な爆発など起きないと思う。大した問題ではない。議論の結論として、女性専用車両の導入を推進した側は、形式的には一切譲らなくて構わない。だからこそ、落ち着いて、話に耳を傾けてほしいのだが。

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混雑してない電車でも痴漢は発生しているが、それはそれとして混雑を解消したいのであれば、方策は簡単だ。既に、答えは出ている。

  • 需給が一致するまで価格を上げよ

答えがわかっているのに、受け入れを拒否し続けてきたのは市民の側。混雑する列車に対して「目標の混雑率を実現するまで、時価で無制限の価格引き上げを認める」ことにすれば、中期的に混雑は解消される。

上がった分の電車賃は、何をどうしても結局は市民が負担することになる。しかし目先の負担回避をどうしてもやりたいなら、企業に通勤交通費の支給を義務付けてもいい。(中期的にそのぶん給与が下がってバランスするだけのことだが)

都市には集積の利益があるから、企業が自ずと集まってくる。政策的に無理に企業を分散させれば、生産性が低下して、結局は労働者の収入が減る。どうしたってフリーランチは存在しない。

結局、「混雑を我慢する」のが、これまでの人々の選択だった。混雑解消のコストは、ほんの少しずつしか、負担してこなかった。当面、劇的な解決策に支持が集まることもないだろう。

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もともとの問題意識にはなかったことだが、今回の「ブーム」で心底ウンザリしたのが、「男性専用車両も作ればいいだろうに」という主張。

「女性が優遇されている、ズルい」という考えで女性専用車両を叩いている人もたしかにいるので、それに対するカウンターなのはわかるけど、「差別だからよくない」と批判している人からすると、完全に間違った反論なのだ。差別だからという理由で白人専用車両に反対する人は、黒人専用車両だって支持しない。なぜそれがわからないのだろう。

「あんたらにはいってない」というならまだいいが、「男性専用車両で解決」といって「はい論破」的な態度を取っている人らは、「差別が問題」という批判を完全に無視している。私だけでなく何人もが明確に述べていることが、どうして目に入らないのか。何なんだこの人らは……と、どんどん怒りが増幅していった。

かつてアメリカで強く批判されて解消された白人専用車両と構図は同じだという批判に対して、「差別者の白人を排除するための黒人専用車両は差別ではない」という反論も、繰り返し出ている。「黒人専用車両だって差別だ」「全ての白人を一律に差別者扱いして排除するのが差別でなくて何なのか」と思うのだが、これもさっぱり理解されない。

別に同意しろとはいってない。相手の主張を踏まえたうえで、どの部分で前提を異にするから結論が異なってくるのか、という考え方をしてほしいのだ。権力勾配を重視して、弱者が強者を排除する「防衛」策は「差別ではない」という考えなら、それはそれで構わない。私とは意見が合わないだけだ。こっちはそうやって、できる限り理解しようとしているつもりなんだが。

……とはいうものの、自分のブコメを読み返してみると、こっちも相手の主張への理解の言葉を添えていない。まず「我が振り直せ」ってことなんだろうし、ああ見えて、あちらさんもこちらの主張は理解してくれているのかもしれない、と思って落ち着いた。

追記(2018-02-20 19:52:26)

容疑者の拘束、有罪と確定した受刑者の拘禁等が人権侵害であることは、論をまたないと思います。もし「それは人権侵害ではない」と主張する方がいれば、「人権侵害ですよ」と、私は反論します。

人権侵害だから、すぐやめろ、といいたいのではない。しかし、人権侵害であるとさえ認めなくなってしまえば、「人権侵害の程度を必要最小限度とするための不断の努力」が途切れてしまいます。かつて刑務所では冬になると凍死者が出ました。受刑者に十分な暖房設備を提供する必要を認めなかったからです。現代ではもちろん、そのような状況は解消されています。

「してよい人権侵害」など、ありはしない。本来、犯罪者だからといって、人権を侵害してよいわけではない。しかし治安維持や更生促進のため、やむを得ず最小限度の人権抑圧を行う。あくまでも「必要悪」であって、有罪が確定した受刑者を刑務所に閉じ込め自由な生活をさせないのは「正しいこと」ではない。

だから、目的に照らして不必要な拘束はできる限り減らさねばならない。受刑者の人権は、基本的に一般人と同様に守らねばならない。

女性専用車両に対していいたいことも、これと同じです。本当に今すぐなくせと主張している方もいるのでしょうが、批判している側の多数は、そうではないでしょう。女性専用車両男性差別に違いないが、必要悪として認める。私も含め、そういう方が多いと思います。

それでも少なからぬ批判者がこれだけカリカリきているのは、「差別には違いないですよね?」という意見に対して、「女性専用車両は全く正しい方策であって、些細な批判も許さない」という態度の方が目立つからだと思います。

受刑者の自由を奪うのは全く正しい。人権侵害だなどとケチをつけるのは許さない。文句をいうなら代案を出せ。zyzyさんが仰っているのは、そういうことではありませんか。

私は、受刑者の自由を奪うのは必要悪なので、その悪を最小化するために不断の努力が求められると考えますし、それが人言侵害であることを忘却したかのような主張があれば強く批判します。そして、わかりやすい代案が必要だとも認めません。刑務所をなくすのは非現実的ですし、これまでの関係者の努力も十分に認めますが、だからといって「刑務所の存在は善で正しい。刑罰を人権侵害だなんていうな」なんて言説を支持できるわけもない。

犯罪がなくなれば刑務所も必要なくなるのに、どうして犯罪者ではなく刑務所を人権侵害だなどといって批判するのか。

という人がいたら、どう思いますか。私は、「それぞれに批判すべき」だと思います。犯罪を減らすことは必要。しかしそれはそれとして、刑務所が不必要な人権侵害をしているなら、それは改めるべきですよね。

女性専用車両についていえば、今すぐ改善すべき重大な問題点があるとは、私は考えていません。私自身は、たまたま今はてブで話題になっているから、女性専用車両を切り口として持論を多々述べる機会とさせていただいただけのこと。各種世論調査でも女性専用車両支持派が断然多数派ですし、積極的擁護派がそんなに頑なな態度を取る必要のある場面ではないと思う。

女性専用車両存亡の危機などではないからこそ、「男性差別ではあるよね」くらいのことは、共通認識として普及を認めたっていいんじゃないですか。それは敗北への蟻の一穴などではなくて、女性専用車両をきちんと存続させていくための礎です。

刑務所がもし、明治時代の網走刑務所のようなあり方を是とし、「これは人権侵害ではない。人権云々の批判は全て不当」といって一切の改善を拒否していたら、どうなっていたでしょうか。おそらく、どこかの時点で刑務所の壁は市民によって破壊されていたはずです。革命に際して刑務所が打ち壊される事例は、過去にいくつもあります。特定の誰かを救出しようというのではなく、不当な人権侵害への怒りは、犯罪者の解放すら自己正当化するということなのです。日本の刑務所が、そのような暴力的破壊を経験せずに済んだのは、よいことでした。それは先人たちの努力によって、なしえたことです。

繰り返しになりますが、私は現状、痴漢対策としての女性専用車両に特段の改善すべき点はないと思います。しかし「これは男性差別ではない」とか「正しい方策にケチをつけるな」というような支持派に対しては、モノ申したい。

女性専用車両を擁護するのに、その差別性を否定する必要は全くないはずです。それは、刑務所の人権侵害を認めることが、刑務所の存在を否定することにつながらないのと同じです。

女性専用車両は、差別だが必要悪。その悪を最小化する不断の努力が必要。「差別ではない」といって、悪から目を背けてはいけない。むしろきちんとその差別性と向きあって、不必要な差別性の強さがないか、チェックし続けるべきです。それは、うるさい少数派の主張に耳を傾け続ける、うんざりするようなことかもしれないけれど、多数派の支持に胡坐をかいて安閑としているのが本当に「正しい態度」でしょうか。

「人権を守る」「差別と闘う」というのは、少なくとも一面において「受刑者の待遇を改善し、女性専用車両の運用を見直し続けるようなことだ」と私は思います。

追記(2018-02-27 00:04:38)

これで回答になるかわかりませんが、私は「許容」の線引きより、「許容した差別」との向き合い方に関心があるわけです。

「していい差別」と「許容できる差別」は、通常の日本語としては同義ですが、説明の都合上、当該記事にて独自の語義を与えました。

あらためて書けば、「していい差別」とは、「後ろめたさを感じなくてよい差別」です。「より重大な問題に対処するため」という大義名分のもとで行われる「していい差別」に対しては、「差別ではある」という指摘すら不当な批判であり、重大な問題の解決を妨げる悪とみなされる。「正しい行いを批判するのは不当だ」という。

私は「していい差別」などない、と主張しました。人間の能力には限界があるため、「より重大な問題に対処するため」に、やむえを得ず最小限の差別を許容する必要は認めますが、「目的が正しいので、この差別も正しい」とまでは、私は認めません。あくまでも必要「悪」であり、常に「差別の悪」を意識し、「より小さな悪で同じ目的を達成できないか」と考え続けるべきだと思うのです。

これは、割と明確な違いだと思います。

女性専用車両はあくまでも必要「悪」であって「差別」批判をきちんと受け止め、より悪を小さくできないか、常に意識しつつ運用していくべき(だが、そうできるほど人間は優秀じゃない。でも、「べきだ」という気持ちがなければ、まず始まらない)。対して積極的推進派は、「正しい方策にケチをつけるな」という。被害者の気持ちを考えろとか何とか。被害者の気持ちがどうあれ、「差別は差別」であることには何ら変わりがないと私は思うし、目的が正しくとも手段が含む「悪」から目をそらしていい理由などないと私は考えるわけですが。

例えば「憲法は合理的区別を認めている」の解釈って、大きく2つあるわけです。私は「憲法は現実的に人間の限界を考えて一定の悪を許容しているに過ぎない」と考えるので、「合理的区別は正しいので、何も後ろめたいことはない」と対立するのです。

このあたりも、私の主張が端的に表現されているところだと思います。

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「差別」の明確な定義はしていませんが、とりあえず「個々人の差異の方が大きな事柄を、属性によって判断すること」あたりでしょうか。

  • https://b.hatena.ne.jp/entry/358332954/comment/deztecjp

    id:mohno 差別は形式的に定義するしかないと私は考えてます。歴史や文化や実感を持ち込めば、共通基盤の構築は不可能だと思う。現実的には、多数派を構成できさえすれば「コンセンサス」の形成には十分なのでしょうが。

  • https://b.hatena.ne.jp/entry/358402332/comment/deztecjp

    id:mohno それは「アメリカの多数派は外国籍の者からの指紋採取を差別と考えていない」だけの話で、「だから差別ではない」と私は認めない。そういう文化ベースの判断を、私は否定しているのです。

はてなハイクより転載)