「誤字脱字の指摘」の何が迷惑なわけ?

feita さんの認識は理解しました。

ただ、当該記事は「もう「噛んだ」って指摘するのやめませんか?」というタイトル通りの主張をしているわけです。その理由として挙げられている内容を私なりに要約したのが「迷惑」という表現でした。

そうした記事のはてブで、当該記事における「これ」への評価への賛否を述べず、「はてブでこれに該当する行為は「誤字をスター引用で指摘する」だと思います。」とだけ書いたならば、「これ」への評価は「誤字をスター引用で指摘する」にも当てはまる、と解釈するのが、「受験国語」的に正しい読解でしょう。

「直接そのようには書いていない」以上、他の解釈が成り立つ余地があり、実際、今回はそういう意味ではなかったというのがfeitaさんの説明で、それは私も受け入れます。受験国語の「正解」は作者の真意と無関係ですが、別にこれは国語の問題ではありませんし、書き手の補足説明を受け入れない理由はありませんから。

でも、それならそれで、feitaさんは「リアル会話で噛んだことを指摘する行為」と「誤字をスター引用で指摘する」の何が共通していると考えていらっしゃるのか、私には疑問です。

そして、私がコメントしている内容は、両者には重要な相違点が3つある、というものです。誤字の指摘は、「話の腰を折らない」「他人を小バカにして笑いを取ろうとする行為ではない」「芸人気取りから出た行為ではない」わけです。

「話の本題よりも、瑣末なミスに焦点を当てた行為」という共通点は、たしかにあるのですけれども、当該記事はそのこと自体は問題視していないんですよね。あくまでメリットとデメリットの比較が壊れていることを問題視している。

もちろんfeitaさんが当該記事の筆者と異なる観点からコメントするのは決して悪いことではありません。ただ、あの書き方だと、記事とfaitaさんの観点の違いは、わからないのがふつうだと思います。

無論、例え話というのは共通点に着目して読み解くものです。AとBが完全にイコールなら、もはやそれは例えではないわけですし。だから、単純に「AとBは違う」というのは無意味です。それはわかってます。

でも、「AとBの共通点はC」という認識から、Aの類例としてBが登場したとき、「いえ、BにCの要素はありません」と主張するのは、正当な反論でしょう。

私は、当該記事とfeitaさんのコメントを見て、feitaさんが「噛んだ」という指摘は誤字の指摘と「迷惑」という点で共通していると認識されているのだと解釈しました。それで、誤字の指摘は迷惑にはなりませんよと主張したわけです。

でもその解釈は違うのだと。了解です。でも、スターを付けている人々はどうなのでしょうか? 私と同様の誤解をして、そのうえで、スターを付けているんじゃないですかね?

私はfeitaさん個人を批判しているわけじゃないんですよね。誤字の指摘を「無粋」「迷惑」のように解釈する人々がそれなりの割合でいるのだな、と。リアル会話での「噛んだ」という指摘が持っているデメリット(の大部分)がない行為なのに、どうしてそう感じるのだろう? そう、疑問に感じたわけです。

世の中、いろんな人がいますから、あれだけはてブがあれば、1人くらいそういう人がいたって驚かない。でもスターがたくさんついて、人気コメントになるのだとすると、「無視できない勢力」だと感じます。こういう人々の存在に注意しながら生きていかねばならない、と思うわけです。

とくにfeitaさんのいうスターでの指摘なんて、ほぼスターを付けられた人くらいしか読まないじゃないですか。「みんなの前で恥をかかされた」みたいなこともない。とすると、「小さな間違い」を指摘されること自体を、嫌がる人が多いんでしょうかね?

最後に、「余談だが「親切」は必ずしも快く受け取られるものではない。」について。

それはわかってますよ。私だって、親切をウザッたく感じることはよくあります。でも、「侮蔑を伴わない誤字の指摘」というのは、時には少しイラッとくることがあるとしても、私にとっては「大歓迎」を基本としたい親切な行為なわけです。大歓迎とまでいうのは多数派でないとしても、少なくとも「もうやめませんか?」と呼びかけるような行為だと思う人は少ないと思う。

私が「親切」を強調したのは、「親切なんだからありがたく受け取れ」という意味ではなく、「芸人気取りでしているのではない」という意味。字数の都合と、「~でないなら、なんなの?」という当然の疑問に回答しておこうという考えから、「親切」と書きました。

はてなハイクより転載)