中3理科のエネルギー保存則について

「わかっているつもり」の人の説得は難しい

2つ目の記事に頭を抱える。「わかっているつもり」の人が、独自の理論を打ち立ててしまっているからだ。

中3理科で学んだエネルギー保存則が、理解されていない。高度な理解に至っていないという問題ではなく、「中3理科で体得すべき素朴な理解」に失敗したまま知識を増やし、体験的事実の表面的理解と整合的な、誤った独自理論に至ってしまっているという問題だ。

「わかっているつもり」の人は、説得するのが難しい。「わからない」人は、こちらの話を素直に解釈してくれるが、「わかっているつもり」の人の場合、まず話を素直に聞いてくれない。強固な思い込みが、理解を阻害する。

そうとわかっていつつも、非力は承知で、説得を試みたい。

中3理科のエネルギー保存則について

まず、何回でも、中3理科のエネルギー保存則に立ち返るべきだ。

  • 仕事量=力×距離
    • 力がどんなに大きくても距離ゼロなら仕事量ゼロ
    • 距離がどんなに長くても力がゼロなら仕事量ゼロ
  • 力学的エネルギー保存則:エネルギーは仕事に伴って移動する(増えも減りもしない)
    • 力の発生にはエネルギーを要しない
    • 俗にいうエネルギーを「消費する」「使う」とは、エネルギーが移動し、(人が)そのエネルギーを(再)利用できなくなること
    • 転がした鉄球が現実の実験環境ではいずれ静止するのは、運動エネルギーが摩擦や音によって次第に熱エネルギーに変化するため

 日本の義務教育は高度で、「熱とは原子、分子の振動である」ことまで中学で学ぶ。したがって「熱エネルギーと目に見える物体の運動エネルギーは同じものだ」と、義務教育の範囲内で理解できる。

はてブを見ても、Togetterを見ても、「力の発生にはエネルギーを要しない」ことが、理解されていない。学校の先生が、明確にそう説明しないからかもしれないが、素朴には、人間の筋肉は「力を発するだけで疲れる」ことが原因だろう。「力の発生にはエネルギーを要する」のが体験的事実なので、どうしてもその前提で考えたいわけである。

エネルギー保存則を学んでも何の疑問も感じなかった人の少なからずは、「力の発生にはエネルギーを要しない」というエネルギー保存則の含意を汲み取れなかったか、それが素朴な感覚に反していることに気付かないくらい、理科の授業の内容を他人事として捉え「生活実感と結び付けない」ことを習慣化していたか、ではなかろうか。

「仕事量ゼロなのに、なぜ人は重いものを持ち続けると疲れるのか」は、私がエネルギー保存則を学んだ時、即座に疑問に感じたことであった。当時の理科担当教師は新卒2年目で、質問してもまともな答えは返ってこなかった。「なんだ、この先生も、わからないで教えているのか」と思ったことを覚えている。自分でもわかっていないことを教えている教師がやたら多いことは、小学生の頃から様々な場面で思い知らされてきた現実であり、とくに驚きはなかった。

さて、問いの答えである。

あくまで中学理科の範囲内で理解できるように説明するなら、筋肉はミクロな仕事をして、荷物を支えるのに必要な「かたさ・かたち」を維持している(より精緻で具体的な理解は高校生物の範囲となる)。人は体内に蓄えた高エネルギー物質を低エネルギー物質に変換し、その差分を筋肉が行う仕事のエネルギー源としている(これは中学の理科と保健体育で学ぶ)。

つまり、筋肉が「力を発するだけでエネルギーを消費する」のはエネルギー保存則の反例ではなく、実際には筋肉が力を出す際には筋肉で仕事が行われている、ということだ。

目立つ誤解

ここからは、目立つ誤解について書く。私はかつて中学生向けの補習塾で働いたとき、ワケわからないまま、理解せずにやり過ごそうとする人にはたくさん接した。しかし、独自の理論を打ち立てて間違った理解によって自分を納得させてしまった人のことは、きちんと見る機会がなかった。だから今回、「そんな風に誤解しているのか」という面白さがあった。

  • 重力に逆らって物が落ちないようにしているのだから、仕事は当然にしている

仕事の定義は記事中にも書かれているのに、「見ても見えない」のだろうか。自分の理解に反する記述は、脳が解釈を拒否するか、自動的に「見なかったことにする」のかもしれない。「距離ゼロでも、仕事はゼロではない」ことにしたい、その思い込みの強さには驚かされた。

エネルギー保存則を自分が堂々と否定してしまっていることに、不安を感じたりはしないのだろうか。たしかに、より高度な理解によって、初歩的な説明における理解が覆されることは多い。だから「筋肉についての素朴な実感に反する中3理科のエネルギー保存則は、自分のより高度な理解によって覆されてもおかしくない」と合理化されているのかもしれない。

これも見当外れの主張。そもそもの問いを理解できていないとしか思えない。

そう、多くの誤解は、そもそも問いを理解できていない。

距離ゼロなら仕事量はゼロ、エネルギーの移動もゼロだと、中3理科で学んだ。ならば重いものを持っているだけで、持っているものを動かさない筋肉が、エネルギーを消費するのはなぜか?

もし「距離ゼロでも仕事量がゼロにならない場合がある」なら、たしかに、何の疑問もない。だから「くだらない疑問」「馬鹿げた疑問」などと、コメントしてしまうのだろう。自分が誤解しているので、他人のまともな疑問が、理解できないのである。

「距離ゼロなら仕事量もゼロ」は常に成立する、という前提があればこそ、問いが成り立つ。

続いて、冒頭でリンクした、はてな匿名ダイアリーの記述を引用する。

2体の見た目そっくりなロボットを考える。

2体とも質量mの物体を両腕で腕を直角に曲げ腰あたりの位置で保持しているとしよう、片手でも良い。

右側のAはモーター出力調整で保持し続けているためエネルギー供給がなされている。

左側のBは腕の角度を機構的にロックしているだけでエネルギーは供給されていない。

一応、Aは音も振動も立てていないとしよう。要するに2体は見た目、区別がつかない。

故に、状態は等価である、と言える気がしてくる。

 

等価ではないとするのが前者である。エネルギー供給がなされているじゃないか、と。

エネルギー供給が途絶えると物は保持できなくなるじゃないか、と、

機構ロックもエネルギー供給と等価とみなせる筈だ、というのが後者である。

同じ状態にあるのだから、機構的ロックも等価なエネルギー量を与えるべきであろう、と。

彼は決して物理学の欠陥を主張しているのではない。

細かい話だが、ロック機構に存在するであろう分子間力とか結合力など、そういうことを言っているのである。

エネルギー供給と、それらのロック機構が内部的にもつ力は等価なのだ、と。

 もしこの文章が、筋肉が仕事をしてエネルギーを消費していることを認める一方で、「機構的ロック」もエネルギーを消費している、という主張ならば、それは誤解だ。

書き手はそんな誤解はしていない、とも読めるが、その場合「機構的ロックも等価なエネルギー量を与えるべきであろう」の文意は何なのか。有用性において等価だという話をしたいだけなら、「エネルギー」なんて、この問題においてまさに議論の焦点となっている言葉を、全く関係ない意味で使用するのはひどい。

書き手の考えがどうあれ、この記事には誤解している人を誘引する魅力があるらしい。

有力な誤解の一典型が、ハンガーの例え話だ。

  • 重いコートをハンガーに吊るしておくと、ハンガーは疲労して変形する

最初、私はこれがいかなる主張なのか、理解できなかった。いまも理解できていないかもしれないが、私は次のように解釈した。

コートを吊るすハンガーに外部から供給されるエネルギーはないが、ハンガーも人体と同じように、コートを吊るすための力を、内部に蓄えられたエネルギーを消費して生み出している。しまわれていたハンガーが変形せず、コートを吊るしていたハンガーだけが変形するのは、ハンガーを構成する分子がエネルギーを失った結果である……。

塑性変形は時間に依存しないが、クリープ変形には時間依存性がある。だから、クリープ変形を知っていると、前述のような誤解が生じるのだと思われる。

実際には、ハンガーのクリープ変形はコートの重さによって生じる現象であって、コートを吊るす力を生み出すために生じた現象ではない。コートが、長い長い時間をかけて、ハンガーに対しごくわずかな仕事をし、コートが持っていた位置エネルギーが少し減って、熱エネルギーになった、そういう現象である。

ハンガーがコートを吊るす力は、エネルギーを消費せずに生み出されている。

コートがハンガーを押す力の源泉は重力だが、コートはその力を生み出すために、エネルギーを一切消費しない。だから、コートの位置エネルギーは、何年経っても減らない。ハンガーがコートを吊るす(支える)力も、エネルギーを消費しない。クリープ変形が起きない丈夫なハンガーは、人が目で見てわからないくらい僅かにクリープ変形を起こしてコートを支えるエネルギーを生み出すのではなく、本当に何らエネルギーを消費せず、変形もしない。

筋肉の時は目に見えない仕事を持ち出しておいて、ハンガーではなぜそれを否定するのか、という疑問もあると思うが、端的には、発熱が観察されないことで証明されている、と述べておきたい。エネルギーが消費されたのにモノが「動かない」なら、空気などに熱エネルギーが伝達されているはずだ。エネルギーは保存され、消えてなくなりはしないからである。

「丈夫なハンガーは筋肉と比較して桁違いに効率よく力を発生させるので、エネルギー消費が微小過ぎて観察できないのだ」という主張もあるかと思う。そうした方の説得は、私の力では諦めざるを得ない。「エネルギー保存則自体が嘘っぱちだ」と主張される方の説得も、同様である。

説得できないのは承知で捨て台詞を書くなら、「どうやっても観察できないほど小さなエネルギーの消費で大きな力を生み出せる」という主張は、もはや「力の発生自体にはエネルギーを消費しない」という主張と紙一重であるにもかかわらず、エネルギー保存則が持つ見通しのよさ、様々な現象をシンプルに説明できる美点を捨て去るものであって、「自分の誤解を守る」以外に、積極的に主張する合理性がないように思う。

  • 人間は剛体じゃない

これも意味不明の主張に見え、困惑した。いや、今も困惑している。確かに人間は剛体ではないが、だから何だというのか。

剛体でなくとも、エネルギー消費ゼロで力を生み出すことができる。

地面に人が立っているとき、人は地面を押している。人が剛体であろうとなかろうと、重さの分だけ地面を押すことに変わりはない。地面もまた剛体ではないが、人が地面にめり込んでいかないのは、地面が人を支えているからだ。

コートを吊るすハンガーも剛体ではない。ハンガーは僅かに変形し、弾性エネルギーを蓄積する。だが、ハンガーはコートを支えるために、蓄積した弾性エネルギーを消費しない。

ゴムは明らかに剛体ではない。だが、机のゴム足は、エネルギー消費ゼロで机を支え続ける。人間より柔らかい物体でも、エネルギー消費ゼロでものを支え続けることができる。ビーズクッションとか、布団も同じだ。

人間は剛体ではないから、物を支える力を生み出すのにエネルギーを消費する? 一体どんな理屈なのか、理解に苦しむ。いま自分の周囲にあるものを観察するだけでも、その主張に理がないことは、わかるはずだ。

ひょっとすると、こういうことなのだろうか。

現実には剛体が存在しない。全てのものはバネとみなせる。体験的には、全てのものは、押すと変形し、元に戻ろうとする力を生じる。これを反力とごっちゃにしてしまい、誤解されているのかもしれない。たしかに素朴な感覚においては、バネの力と反力とを区別することができないので。

しかしともかく誤解だ。

一切変形しない剛体が実在したとして、その剛体においても反力は発生する。弾性体に載せた鉄球が静止しているとき、鉄球が弾性体から受ける力は、剛体上の静止した鉄球が剛体から受ける力と同一である。つまり、静止している鉄球が受ける力は、それを支えているのが剛体かどうかと関係がない。……というあたりの話が、誤解を解くきっかけになったらいいのだけれど。

後は、どんな誤解があったかな……。なにか思い出したら続きを書きます。

この記事を書いたきっかけ

仕事量ゼロなのにどうして疲れるの?問題について。

人間の筋肉は分子レベルの話していいのにハンガーだと構成する分子の話をしちゃいけないのはなんでだ。ハンガーの仕事量ゼロってのがそもそもの間違い<a href="http://kentiku-kouzou.jp/sp/advance-hizumienergy.html" target="_blank" rel="noopener nofollow">http://kentiku-kouzou.jp/sp/advance-hizumienergy.html

2019/10/22 18:01

b.hatena.ne.jp

この id:sds-page さんのブコメがたくさんスターを集めていて、困惑した。ハンガーの仕事量はゼロで正しいのだが。分子の話をしても、同じことだ。ハンガーの分子は、コートを支えるために、何も仕事をしていない。

剛体ならざる現実のハンガーはコートの重さで微小変形を生じ、弾性エネルギーを蓄積するが、そのエネルギーがコートを支える力を生み出すために使われることはない。クリープ変形は、ハンガーの仕事量がゼロではないことの証拠ではない。実質的に、この議論とは無関係の現象である。

sds-page さんって、意見は私とは違うことが少なくないけれど、話は通じる方だと思っていて。スターを付けた人らは説得できなくても、sds-page さんは説得できるのでは?と思ったので、思うところを書きました。