津原さんが斎藤さんの主張に怒る理由なんかない

まず斎藤さんが「病態」としての「失認」をいっていることは、私からすると文脈から明らか。脳に損傷が生じ、結果として「失認」が起きている、なんて話はしていない。私の理解では、斎藤さんは精神的ショックによっても「失認」は生じ得る、という立場から書いている。

で、原爆投下後の広島で人違いが頻発する様子(と解釈できる場面)は、映画の中に存在するので、斎藤さんはそれをいっているだけ。

結局、津原さんは、その場面は失認説によらずとも説明がつくといっているだけで、失認説を「全」否定する根拠は何も示せていない。津原さんの主張の方が「説得力がある」と思う方は多いかもしれないが、「失認の状態だった人もいた」として、なんら矛盾は生じない。このことから逆に、斎藤さんの主張も、津原さんを何ら否定しないことがわかる。斎藤説と津原説は排他的ではないということ。

だから、津原さんが斎藤さんの主張に怒る理由なんかないんですよ。失認「だけ」で説明してしまうのは浅薄、という話ならわかりますよ。もっといろいろな説明が可能でしょう、と。でもなんであんなに怒るんですかね。どの人間違いも失認で説明することを許さない、という怒り方じゃないですか。あの偏狭さは、私にはわかりませんね。たぶん、何か勘違いされているのだと思う。

怒りを前提として、動かせない結論として、理由探しをするようなことが正しいとは、私には思えない。ま、私がどう思おうと、uemaeradさんが断固として「斎藤さんは、原爆投下後の広島の街を歩く人々はみな脳に障害を負い、失認の病態を呈したと主張している!」と認識して怒りたいというなら、止める術などありはしない。「それは誤解でしょう」というのがせいぜいです。

で、私が何を強いているっていうんです?

別に「失認」説だって悪くないと思う。異論があるのは分かったけど、そんなに怒るようなことか、否定せずにはいられないようなことか。「のんきな解釈だな。でもまあいいか」というわけにはいかないのかね。

これが私のブコメです。私が津原さんの怒りに共感せず同調せず、穏当な表現でいくつかの疑問を呈したら、何かを強いたことになるんですかね。「というわけにはいかないのかね」ですよ、私の発言は。津原さんの発言に眉を顰めてはいるけれど、認めてはいるじゃないですか。これで「強いる」といわれたんじゃ、たまらないな。

私のブコメによって、津原さんはその意に反して何か強制されるんですか? それとも、私が知らず手元の辞書(大辞泉)にも載ってない「強いる」の語義が、どこかにあるんですかね。

追記(2016-12-12 15:01:26)

wikipediaを見る限りでは失認とは認知側の障害だそうなので、主に認知する対象に(損傷がひどいなどで)原因がある事例との同一視は問題では?斉藤環は「被爆後の広島ではそこらじゅうで人間違いが起きる」と言っている

いやあのさ、損傷ってのは肉体、顔の損傷だよwなんで原爆で脳だけが傷つくんだよw現実の広島で頻発した人間違いは、ほとんどが探す相手の顔が焼けてたりで識別困難なのが原因だった。斉藤はそれも失認だと言った。

上のブコメの内容、やっと理解しました。

ただ、斎藤さんは映画の感想を書いている。映画の中での描写は失認で(も)説明できる。実際には他の理由で相手を判別困難な事例の方が多かったというのが津原さんの反論だけど失認がなかった証明にはなってない。……という、私の主張に変わりはないですね。

焦土に身内と似た背恰好を見掛け、あの黒焦げは別人だった、こっちに生きていた、と希望をいだくのが「失認」? 諦めなかった人たちだけが再会を果たし、それでも残り時間は僅かな事が多かった地獄で。

斎藤さんのいう失認は、まさにそういう、希望にすがることによっても生じ得るものなので、何の反論にもなっていない。遺体は黒焦げだったので、判別できなかったのは当然、ともいえるし、黒焦げであっても、失認の状態でなければ判別できただろう、ともいえる。

街中での人探しのシーンも同様。失認状態でなければ似ていると思わないであろう相手にまで声をかけているとも解釈できるし、実際に誤認してもおかしくない状況だったともいえる。

斎藤さんが当該シーンを失認で解釈するのは自由だし、それが何か害悪であるとは、私には思えませんね。

はてなハイクより転載)