検察は確信をもって起訴しなくてはならぬ

指示の誤記ではなく「支持」と書いているのは私しかいないので、私の意見を聞きたいということだろうと思います。ただ、100字には収まらないので、ハイクでレスします。なお、とくに返信は求めません。最後まで読まなくても構いません。では、始めます。

1.

まず、記事にはこうあります。

アメフットのタックルなどスポーツ上の行為は、ルール内であれば正当な業務による行為とされ、相手が負傷しても違法性はない。捜査では、宮川選手に対して「相手を潰せ」などとした指示内容が、正当業務行為の範囲を超えていたかが焦点となった。

 警視庁は捜査1課の殺人事件担当や課内のアメフット経験者、競技場を管轄する調布署員らからなる特別捜査チームを編成。アメフット部の関係者や競技の専門家ら約200人から事情聴取したほか、試合を複数の角度から撮影した動画を解析。記者会見などでの関係者の発言についても裏付け捜査を行った。

 その結果、宮川選手に対し、2人が相手にけがをさせるよう仕向けた言動は確認されなかった。「潰せ」という言葉も「強いタックル」などの意味で一般的に使われており、ルールを逸脱し、相手を負傷させることを意図したものとはいえないと判断した。

 宮川選手は記者会見などで「けがをさせるのが目的で、監督やコーチの指示だった」と説明。内田氏らは「反則やけがをさせることを意図した指示はしていない」と否定していた。

結局、明確な「反則」の指示はなかった。宮川選手は、しかし自分はコーチの言葉を反則の指示と受け取った、と述べている。

実際にあったのは「潰せ」という指示だが、それは日常的に使われている言葉であり、せいぜい「全力のタックルによって結果的に相手がケガをしても構わない」という以上の意味ではない。

ひとつの傍証として。日大は関学大より反則が少ないチームだった。同時に、「潰せ」は日頃から出ていた指示だった。思いっきり当たれ、手加減するな、という意図が、大多数の選手には正しく伝わっていたと考えられる。

ではなぜ、反則を行った後でコーチは選手を叱らなかったのか。それは様々な説明が可能だが、私はこう考える。

監督は宮川選手のおとなしいプレーを嫌い、先発から外していた。コーチは選手に積極的なプレーを求めた。結果、やり方は間違ったが、選手は「積極的なプレー」をする姿勢を見せた。こうした場合、「やり方を間違ったことを責める」か、「チャレンジの方向性は合っている」ことを誉めるか、両方の選択肢がある。監督とコーチは、後者を選んだ。

世論は「反則しろ」といって「反則した」から誉めたのだ、という筋読みに偏重しているが、それは唯一無二のシナリオではない。

監督もコーチも、「反則は反則だが、ラグビーに反則はつきもの」程度の認識だったことは、試合直後の発言から明らかだ。しかし試合直後の発言にも、反則を指示したなどという内容は一切ない。そもそも、反則を繰り返し1人退場となって数的不利に陥ったことで、チームは単純に損をしている。

日大は悪質な反則の常習犯かと疑われて過去の事例をずいぶん詮索されたが、立て続けに3回も反則をして早々に選手が退場になるようなケースは、ついぞ発見されなかった。過去にないことが起きたのである。

以上が、事件に対する私の認識。

2.

今回の警察の判断を支持する理由について。

客観的事実として、日大ラグビー部は反則の多いチームではない。悪質タックルの類似例も、内田監督復帰後、なかった。ふつうの反則はあった。しかしそれを問題視すると、全てのチームに問題があったことになる。

「潰せ」が特別な言葉でなかったことは、もとより大勢が証言していた。

宮川選手は「反則しろ」とはいわれなかったことを繰り返し証言したし、他の選手や関係者からも、監督やコーチが「反則しろ」といっていたという類の証言は出てこなかった。積極果敢なプレーによって相手選手がケガをしても構わない、ということは主張していたが、その程度のことは他大学でも指導されていた内容である。

消極的なプレーはチームに不利だが、反則を取られるのもチームに不利。退場は明らかに損であり、宮川選手がやったような悪質タックルは、チームのためにならないことは自明である。そんなことを、監督やコーチが望むとは考えにくい。

ラグビーにつきもののラフプレー自体が罪に問われたのではない。「反則の指示」がもしあったなら、それは傷害罪ではないのか、という話だったのだ。

そして現在のところ、反則を指示した証拠は十分に集まっていない。ならば検察は、世論におもねって、証拠もないのに起訴すべきでないし、警視庁が立件見送りとするのは当然である。

悪質タックルは現実に起きた。選手が傷害罪に問われるのは仕方ない(私は刑事罰は過剰と考えるが……)。選手は「指示されたのでやった」という認識だった。しかし、それが勘違い・誤解だった可能性が、相当にある。

立件が見送られても、世間は監督とコーチが反則を指示したんだという考えを変えないだろうし、大学内での処分も覆るまい。しかし、司法権力が、無辜を罪に問うてはなるまい。結果的に裁判で無罪になればいいというものではない。起訴され、刑事裁判にかけられるだけで十分に、市民の生活は破壊されてしまう。人権を制限する権力の行使には、厳しい制約が必要だ。

検察は、疑いではなく確信をもって起訴しなくてはならぬ。確信をもって起訴された案件の中にさえ無罪の事案があり、だから最後の砦として裁判所が慎重にも慎重を期して判断をする……そう考えるべきだ。

疑わしいという程度で起訴して、裁判所に判断を投げるなどという軽薄な司法のまかり通る社会で、市民は安心して暮らせないだろう。

はてなハイクより転載)