松本麗華さんの主張はダブルスタンダードか?

  • https://b.hatena.ne.jp/entry/360530507/comment/tetora2

    自身も娘という立場を使った感情論を展開しているわけで、感情論で法を外れた判決が出たとの主張は筋が悪いですね。では冷静な判断が出来ないお前は黙ってろと言われて終わりです。

  • https://b.hatena.ne.jp/entry/360530507/comment/deztecjp

    私が書いたのは、彼女の主張に「矛盾はない」ということです。「法を外れた裁判による判決」を法順守の観点から否定しているので。「法を外れた裁判」という認識に異論はあれど、「矛盾」という批判は不当。

tetora2さんが「自分から見ると矛盾している」のを「矛盾」と批判する流儀なら、仕方ないですけど、私はなるべく、「当人の主張そのものが矛盾している」場合に限って「矛盾」と批判するようにしています。

松本麗華さんは、松本智津夫さんは本来必要な治療を受けることがかなわず、正当な裁判を受けることができなかったと認識されているわけです。だから、判決にも不服がある。きちんと治療を受けて裁判を受け直しても、結論は同じ死刑かも知れない。だけど、正当な裁判の結果なら受け入れる、ということもいっている。

この主張に、私の定義でいう「矛盾」はありません。法を遵守せよ、という一貫した主張になっています。「法から外れた裁判は認めない。法律に則り父を治療せよ」というわけです。

ここまで書いたところでレスをいただいたので。

字数の都合で、一番短く書ける「矛盾」を選択したのです。しかし以下では「ダブルスタンダード」と書くことにしましょうか。

松本さんは、自分の主張に自分の感情が乗っていることを否定していません。けれども、その感情によって自分の主張が歪められているとは認識されていない。感情を排しても「松本智津夫裁判は法から外れた不当なものだった」という点に変わりはないと、松本さんは認識されていると思う。

ある主張が一面において感情論によって支持されているとしても、その主張全体が「感情論に過ぎない」かどうかは、別問題であるわけです。

日本の有権者の多数派は、松本智津夫裁判に法的正当性を認めています。私も、法的正当性がないとまではいえないと思い、消極的にであれ、正当性を認める一人です。しかしあれが不当な裁判だったという主張は、これまで数多の法曹からも提出されてきたものです。

松本さんの「あの裁判は不当だった。父の治療を行い、裁判をやり直すべき」という主張は、もちろん娘としての感情をひとつのベースとしているわけです。けれども、松本さんが最も強く押し出しているのは、「法律通りにやるべき」という主張であり、これは松本さんの感情とは別に、十分な強さを持っています。

tetora2さんは「法を片方で軽視し、片方で都合よく使う姿勢」とおっしゃるけれども、「法から外れた不当な裁判に基づく不当な判決」という批判は、法を重視するからこそ出てくる主張なのです。松本智津夫裁判への批判が主に法曹から出てきたのは、まさにそういうことであって。

例えば「取って付けたような理屈。その主張の根っこにあるもの、本質は感情論だ。自分の気持ちを満たすために、法律を道具として持ち出しているに過ぎない」と批判するなら、わからないでもないのですが、松本さんが「法を片方で軽視し」ているという批判は、根拠を欠いていると思う。

松本さんが松本智津夫裁判を不当とみなすのは感情で目が曇っているからにすぎず、松本智津夫裁判は全く正当なものであって、その裁判、その判決を受け入れないのは法律の軽視である……とtetora2さんが考えることについては、私としてはとくに何もいいたいことはありません。

ただ、それはtetora2さんの解釈というか、世界観というか、tetora2さんの主張の前提に過ぎないのであって、松本さんの主張の前提ではない。

私の流儀では、ダブルスタンダードというのは、当人の主張自体が一貫していないことをいう。あっちとこっちでいっていることが違うではないか、と。

でも松本さんはどうですか。「法を守れ」と一貫して主張されているではありませんか。

それに対して、ダブルスタンダードだといって批判するのは、無理があるとは思いませんか?

結局、「松本智津夫裁判は正当だったのか不当だったのか」が対立点なのです。感情VS法律ではない。少なくとも言葉の上では、松本さんは法律重視の姿勢を明確にしているのです。

追記(2018-03-17 23:17:23)

松本麗華さんの主張、つまり被告(当時)の病状に関する論点は裁判で却下されたものですが、裁判所が認めなかった主張を繰り返すのは感情論に過ぎない、ということは全然なくて、だから確定死刑囚の再審請求が数十年も続いたりするわけです。

現状、公的には松本智津夫裁判に法律上の瑕疵があったとは認められていない。でも過去には、いったんは法的に効力があると認められた証拠が、ずっと時間が経ってから一転して却下された事例もありますし、松本麗華さんが今されているような主張を繰り返すことが、即ち法の軽視だなんて、私は思いません。

ただ、新証拠がなければ従来通り却下されるだけでしょうし、松本麗華さん側はもう松本死刑囚の健康状態を自分たちの納得いくまで調査することなど不可能であって、新証拠が仮に出てくるとしたら司法関係者の証言か、以下に示すようなケースしかないと思う。

松本被告(当時)の状態は、様々な立場の人が法廷で見て「治療が必要なのでは?」と思うようなものだった。これは事実です。裁判所は鑑定の結果、裁判をこのまま続けられると判断したけれど、異論はあったわけです。

話としては、DNA鑑定のやり直しを求めるのと似ています。DNA鑑定が不服だという話につきあって、同じ鑑定を繰り返したって時間とカネの無駄なのは明らかだから、基本的には却下されるわけですけど、別の現在進行形の裁判で同じ先生の鑑定がいくつかひっくり返ったら、こっちもやり直せという話になったりする。松本被告(当時)を鑑定した先生が、別の事件で鑑定に疑義がついてひっくり返ったりすると、松本智津夫裁判の鑑定も間違っていたんじゃないかという話が再燃するんじゃないでしょうか。

とはいえ、所詮は人間がその能力の限界の中で人を裁くわけで、誰もケチのつけようのない裁判など不可能。松本さんがしているのも、死刑執行を先延ばしにするための時間稼ぎの主張だ、という見方もできるでしょう。最近、再審請求中の死刑囚が刑を執行され、激怒している方もいましたが、そのケースでは被告が無罪を主張していたわけでもなく、再審請求中だからといって死刑を執行してはいけないと単純に考える方が危ないと思いました。

私個人は、松本死刑囚がいま死刑執行されても、とくに批判しない。法律遵守というなら、法律通りさっさと執行するか、空文化している現行法を早く改正すべきでしょう。

でも、松本梨香さんの主張を、tetora2さんのようには批判しません。

私はいま、再審請求申請中の確定囚の方の支援はしていないし、目下とくに注目している再審請求もありません。ただ、過去にはいくつか支持してきた事例もあります。

松本麗華さんの主張は、そうした事例と明確に区別できる要素が、私には見当たりません。

裁判所が、正規の手続きに則って鑑定をしたんだから、その鑑定は正しいんだ、不満があるなら誰もが納得できるだけの証拠を出せ、なんていったら、どんな再審請求も成り立たないですよ。

言葉の上滑りはあると思う。だけどそれも、他の再審請求事案と比べて、とくに過激ではない。

「自然人に対して根拠無く行えば名誉毀損の疑いが極めて強い発言です。」

これは私も同意しますし、それがよいことだとは思いません。でも、これを咎めだてして、こういうモノの言い方は法の遵守を求めることと両立し得ないといったら、他の再審請求事案も軒並みアウトになる。

こういうことは公正・公平でないといけない。私は、過去にいくつかの再審請求について僅かな支援や応援をしてきましたから、tetora2さんのような基準で判断することはできません。

再審請求をする側は、しばしば裁判所や警察や検察を散々罵っていました。悪意なき過誤による冤罪ではなく、意図的な冤罪だとまで主張してきた。そうまで他者の悪意を吹聴する根拠があるかといえば、私の見てきた限りでは、なかったですね。「私には、そうとしか思えない」以上の理由はない。

娘さんが「お父さんは悪い人じゃない、何かの間違いだ」と言うのなら止めはしません。

又は「裁判のここに問題があるので再審請求したい」とだけ発言しているのならそれも一つの意見として尊重します(同意はしませんが)

しかし「お父さんは優しかった、裁判所は感情論で判断して精神鑑定を予断を持って行った、心神喪失の父は無罪だ」と主張するなら話は別です。

自分は感情論を振りかざす、相手を根拠無く貶める。根拠無く相手を貶める感情的な自分を差し置いて、法に則った処置を求める。

私はダブルスタンダードだと思いますね。

なるほど、と思いました。tetora2さんの基準は、理解したつもりです。

私は同意しませんが、tetora2さんの基準が、他のあらゆる再審請求事案にも公平に適用されるなら、これ以上、私としては申し述べたいことはありません。

以下は、同じ内容の繰り返しです。

既に述べた通り、「感情論の部分は差っ引いても残る主張がある」なら、感情論とは腑分けして、その部分の主張に私は耳を傾けます。感情的な言葉で構成され、様々な問題を含む発言だとしても、その主張の全体を「感情論だ」として切り捨てることはしません。

裁判所が治療は不要だと鑑定しても、「納得できない。再鑑定すべきだ」というのは法的な主張だと、私は認めます。過去の様々な事件におけるDNA鑑定への疑義申立と、同様に考えているわけです。ただ、それは法的に無意味な主張ではないけれど、いったん正当な手続きを経て鑑定はなされたわけであって、基本的にはスルーされて当然。しかしそれは、「感情論だ」という切り捨てではなく、「論拠が弱い」という判断によらねばならないと思う。

……とはいえ、世間では「感情的な物言い」であることをもって「感情論」と全体を判断することが、確かに多い。私も、時にそういう判断に流されている。しかし私はそのような判断を本来的には支持しないのであって、以後いっそう、自分がそうした判断をしてしまってはいないか、気をつけていきたい。

はてなハイクより転載)