零細な豆腐業者の保護を支持せず

まあたしかに、そのあたり、私の二枚舌というか。私の根本的な主張は、「零細な豆腐業者を保護する意味はなく、自由市場による淘汰に任せてよい」であって、自由競争下で市場が拡大した納豆の事例をもって示したいのは、価格の低下が即ち市場の縮小を意味するわけではないし、生産者が全滅することにもならない、という程度の意味合い。

「市場に任せておけば市場が拡大する」という調子の文章になっているのは、よくいって勇み足ですかね。

90%超の豆腐業者が消えても、それで私たちが豆腐を食べられなくなるわけではない。豆腐の生産量も、とくに減らない。潰れた業者の分、生き残った業者が生産を増やして、需要を満たす。本当に全く誰も儲からないなら生産量が縮小し、少し価格が持ち直して均衡する。目下、激しい市場淘汰の真っ最中なので、各社とも少しずつ無理をしているが、全ての業者が全く儲からない(一時的ではなく恒常的にという意味)ような価格には、ならない。誰も生産を強制されてはいないからである。

需要自体が減るなら市場は縮小するけれど、それは市場が自由かどうかとは関係ない。豆腐業界も、もやし業界と同様、市場による不採算業者の淘汰を放置すべきである。

以下は、とくにレスというわけではなく。

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メガネ市場は価格競争で市場全体が縮小しましたが、それで困ったのはメガネ業界だけであって、消費者は困っていない。消費者は、メガネより、もっと他のことに金を使いたかった。政府がメガネ業界を保護して、メガネ価格を高値で維持すべきだったとは、全く思わない。価格破壊を進めた業者は、まさに正しいことをした。

零細業者がバタバタ倒れていくと、「もう豆腐を食べられなくなるのでは?」みたいな悲観論が出てくるが、実際はそうではない。生産過剰だから価格が下がるのであって、生産量が需要を下回れば、価格は上がる。需要が失われない限りは、市場競争によって生産が途絶するわけがない。もちろん需要が変化すれば、話も違ってくる。何らかの理由で代替商品に需要が移ってしまった場合や、人々の意識が変わり、「その値段なら買わない」と、いま生産可能な価格では誰も買わなくなってしまった場合など。でも、それって、市場を保護していても関係なく需要が減るケースであることに注意。

また、国内に限れば全ての業者が倒れることはあるが、それは問題ではない。日本で作るには不合理な商品になったというだけの話に過ぎない。(「国内産」に消費者が価格相応の価値を見出さないから淘汰されるのであって、だったら淘汰されてよい)

失業の発生は問題だが、例えば、ある人が、豆腐を作るより建設現場で働く方が給与が上がるなら、その人は建設現場で働く方が生産性が高いのであって、その人に豆腐を作らせ続けることに、経済合理性はない。趣味で豆腐を作るならいいが、政府が豆腐作りを保護することに、私は賛成しない。もやし生産も同様だ。競争に負けて撤退する業者が発生すること自体は問題ではない。

出稼ぎの農業従事者が、いつしか主従逆転して、農業の方が副業の方になっていった歴史があるけれども、私はそれを本末転倒だとは思わない。稼げる仕事をするのが正しい。「自分の仕事はこれだ」なんて、あまり思い込まない方がいいと思う。

だから、零細な豆腐業者がつぶれて、従業員がいったんは失業するとしても、新しい仕事でむしろ生活が安定するなら、当人に面と向かってそういったら怒られるかもしれないが、経済政策というのはそういう目線で判断すべきではないと私は考えているので、政策判断としては「よかったね」といいたい。

やりたい仕事と、向いている仕事が違うのは、みんなそうなんじゃないか。それをことさらに不幸だという言説には与しない。むしろそういう言説の流布こそが、本来は不幸ではない人に、「自分は不幸だ」と思わせる元凶のひとつ。「給料が上がったなら、今の仕事の方が向いている。儲からない仕事で疲弊するより、むしろ自分に合った仕事が見つかってよかったじゃないか」みたいな考え方が、もっと広まってほしい。

社会全体で失業者が増えるのでなければ、給与所得の総額が減るのでなければ、個々の労働者が失業を経験すること自体を、政策的に、ことさらに抑制する必要はない。

はてなハイクより転載)