フレーズの引用くらい気楽にさせてくれ

1.

道徳を聖書から引く人がいたらそれはキリスト教徒で、「人間革命」から引いてくる人がいたら創価学会員だろう。教育勅語から引いてくるのは戦前の体制を「信仰」しているという告白だ

聖書からの引用は日本人作家の作品にもあふれていますけど、私は、その一事をもって、作者はキリスト教徒なのだろうとは、考えたことなかったですね。様々な作品が聖書を下敷きにしていますが、むしろキリスト教徒じゃないから、好きなように都合よくつまみ食いできているんだろうと思っていたくらい。

故事成語には教訓話みたいなものがたくさんありますが、私は出典となっている作品の全体を通した主張とか、気にしたことはありません。もともとは誰がどんな文脈で使った言葉かとは関係なく、当該フレーズの、現在通用している一般的な解釈さえ採用できれば、使うことにしてます。

私は『人間革命』を未読だから、そこから言葉を引くことはできませんけど、たぶん読めばいくつかは賛同できることも書かれているはずで、私が創価学会の信者かどうかとは関係なく、「いいフレーズ」があれば引用すると思いますよ。キリスト教徒じゃないけど『聖書』から引用し、儒者ではないけれど『論語』から引用し、道教には興味ないけど『老子』から引用し、仏教徒ではないけれど釈迦の言葉(とされているもの)も引用して、私は生きてきました。

「汝の隣人を愛せ」とか、私は好きな言葉です。出典は旧約聖書レビ記でしたっけ。でも、本来の意味合いには、興味がない。「汝の隣人を愛せ」という日本語の響きと、その言葉通りの素朴な解釈が、私は好きなだけです。

教育勅語にも、現代でも通用する内容は含まれているのだろうから、その部分を引用したって問題ないと私は思いますね。出典が教育勅語だからいけないとか、そういう立場には与しません。

いちいち孔子老子に全面的に賛同しなきゃ『論語』や『老子』から引用できないのでは、不自由ではありませんか。『聖書』とか、カッコいいフレーズがいっぱいあるので、キリスト教徒じゃなくたって、引用したくなる魅力にあふれていると思いません? 「光あれ」くらいで、キリスト教徒扱いされたんじゃ、面倒くさいですね。

たとえ出典がヒトラーの『我が闘争』だとしても、私はただそれだけのことで人を批判したくないです。「誰がいうかより何をいうか」だと思っているので、ヒトラーだって、いくつかはいいこともいっているんじゃないですかね。その「いいことをいっている」部分を引用して、賛意を表しているなら、何も問題はないと思う。というか、それを問題視する側に問題がある、というのが私の立場。

我が闘争』から引用したからからといって、反ユダヤ主義者であると決め付けるのはおかしい。出典となった書物や、その著者の思想がどうとかではなく、引用されたフレーズ単体の素直な解釈に基づいて、個々に判断すべきことだと思う。

……と、私が力説しても、IkaMaru さんは賛同されないだろうし、世間の多くの人々も、『我が闘争』から、ワンフレーズであれ好意的な引用をすれば、本全体への賛同だと決めつけるのでしょうね。当人が「違う」といっても、全く聞く耳を持たないで、「誤解だというなら他の本から引用すればいいだろう」とかいうんでしょう。そのくせ、構図としては自分も同じことをやっているというのに、自分の故事成語の扱いを反省することなんか、しやしない。『韓非子』から引用したからといって、韓非子の主張に全面的に賛成だとか決め付けられたら、「そんなわけないのは、常識でわかるよね」的な態度をとりそう。

私はそういうことに、ムカムカするわけです。まあ、予想で勝手に盛り上がってムカムカしてるだけなので、バカみたいな話ですが。

2.

教育勅語を戦前のように教育の唯一の根本理念として復活させるべきとは、私も考えておりません。国会の中で答弁してきましたのは、その中にも夫婦仲良くとか、兄弟仲良く、友達と仲良く、それから世界から尊敬される国を目指しましょうという、そういう部分において今も普遍的なものはあるということであります。また、先ほど委員がご指摘になりましたように、教育勅語については、日本国憲法、及び教育基本法の制定等を以て正常の効力が喪失しているということを承知をしております。

あのー、囚われているということではなくて、その教育勅語の中に書かれているものの中には、今にも普遍的な価値、すなわち、親孝行、兄弟仲良く、夫婦仲良く、友達を大切にする。高い倫理観で世界から尊敬されるなどですね。そういうものはあると。そういういいものは残す。正しく、不易と流行ということだという趣旨で述べたところでございます。

リンク先の文字起こしによれば、稲田さんは、こう述べている。でも、批判する側は、この発言を全く信じない。それらの道徳律をいいたければ、他の文献から引用すればいい、教育勅語を出典とすることに固執するのは、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」の復活を狙っているからだ、と断定する。

まあ、真実はそうなのかもしれませんし、ここで叩いておくのが世知ってものなのかもしれませんが、私は与しない。当人が「違う」といっているのだから、十分な証拠もないのに決め付けて叩くことを支持しない(既に証拠は揃っているという人も多いだろうけど、私はいま提出されている「証拠」が、それほど強力なものだとは思っていない)。

疑いを持つこと、そして百歩譲って疑いを公言することまでは、許容しますが、疑いはあくまで疑いなのだから、疑いの段階であるなりの抑制のある批判とすべき。ま、私一人が「許容する」「許容しない」などといったところで、実質的には無力なわけだけれども。

私は、もっとも蓋然性の高いストーリーが真実だとは限らない、と思っている。ありえないとは言い切れないストーリーは、どれも真実の可能性がある。疑い、備えることは、人が、社会が生き残るために必要な資質。それは否定しない。しかし、安直な決め付けを許容しないことは、それと両立できるはずです。

教育勅語』なら、一部の好意的な引用を支持する人が少しはいるけれど、『我が闘争』なら、世間のほぼ全ての人が批判する側に回ると思う。それでも私は、『我が闘争』から好意的な引用をすれば、即ち批判に値するという主張には、与しない。多数決で正誤を決めたい人は、どうぞご勝手に。この件に関して、世間の「当然」を、私は支持しない。

はてなハイクより転載)