「ヘイトは一律排除」には与しない

1.

アーリア人至上主義は「ユダヤ人は劣等人種である」という主張を含むためヘイトスピーチにあたると思われますが、ヘイトスピーチ規制には原則として反対である、と理解してよろしいですか?

私は『我が闘争』を例示しました。私は同書をふつうに買って読める日本の支持しています。しかし同時に、ドイツで同書が長く発禁だったことも支持。つまり私は、社会的状況次第で、「言論の自由と釣り合うもの」は違ってくると思っているわけです。

戦後、長い時間が経って、ドイツでも注釈付きの『我が闘争』が公刊されました。私はこれも支持しています。「いまのドイツ」においては、そのあたりで「釣り合いが取れる」ということなのだと。

さて、ヘイトスピーチの件ですが、私は「ヘイトの一律な排除を支持しない」という立場です。具体的にどれほどの害が社会にあって、それが言論の自由の制約と比較して、釣り合いのとれる状況かどうか、それによって判断したい。現在の日本で、『我が闘争』を発禁とするのは、言論の自由を制約する害悪が勝る、と考える。(将来の日本では状況が変わる可能性もある)

その根拠を客観的に数値化して示せ、といわれても困る。感覚的な意見に過ぎないことは認めます。だから、「あなたはヘイト被害者の苦しみの見積もりを誤っている」といった批判に対しては、説得的な反論はできません。「一律にNG」という立場についても、「一定の理解」はできます。

でも、究極的に私が賛同するかしないかの話をいうなら、「ヘイトは一律排除」には与しない。

以上で回答になっていますでしょうか。

2.2017-01-18 20:19:21

レスとして書き始めたのですが、なんか話がズレていったので、自記事へのレスにしておきます。

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そうですね、書籍への評価の違い、あるいは当該書籍(を客室に置くこと)の社会的影響の見積もりの違い、といっていいと思います。

不愉快に思う人もいるだろうし、読んで内容を真に受ける人もいるだろうし、社会的にプラスかマイナスかといったら、私もマイナスなんじゃないかと思う。けれども、それを排除することの害悪は、もっと大きいんじゃないか?と直感しているんですね。ただの直感だから、「私はそう思わない」といわれれば、それ以上、重ねる言葉はないわけです。

表現の自由言論の自由って、たくさんの小さなマイナスを許容していくことでしか守れないんじゃないか、それでも守らなければいけないんじゃないか。そう思ってます。

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私は「あえて」という感覚も込めて、「本を撤去するしかないほどの批判には与しない」という立場をブコメで示していますが、実際のところ、ちょっとやそっとの批判では「撤去するしかない」とまではならないとも考えています。

魚入りのスケートリンクの話題でも、私は「表現の自由」を擁護する立場を取りましたが、多くの批判が魚入りスケートリンクを撤回させたことを、「表現の自由の侵害」とは考えていません。突っぱねることも可能だったろう、と考えるからです。

ただ、ここしばらく、批判が集中して、自主的に表現や主張を撤回する事例が多いという印象はあります。個別に見れば、どれもやはり強制とまではいえず「自主的な判断」の範疇だと思えるわけですが、たまには「突っぱねる」事例も出てこないと、「いや、現代の日本社会ではjこれは事実上の強制なんだよ」という解釈が、実証的に説明できてしまうような気もしていたのです。

その意味で、アパホテルの対応には、個人的にはホッとしました。というのは、私だって「これはおかしい」と思うものは批判したいわけで、それに対して「強制だ」「抑圧だ」といわれたのでは、困るからです。

とはいえ、あまり強すぎる言葉は使わないようにしていこうとか、そういうことは考えてます。

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将来の日本で、『我が闘争』を読んでネオナチのような活動をする集団が社会的な問題をたくさん引き起こすような状況になったなら、発禁もやむなしと思う。

南京虐殺幻本の類が、社会に何らメリットをもたらしていないというのは、それはそうだろうと私も思うわけですが、『我が闘争』も学術書として読まれるより、興味本位で読まれる方が多いだろうし、軽度のヒトラー支持者を生み出し続けているわけでもあり、『我が闘争』の無制限の流通が、社会にプラスの効用を持つかどうかについては、疑問を持っています。例えば「免許制の管理対象文書」とでもした方が、社会的効用は増すようにも思えます(社会へのマイナスの効果を圧縮し、プラスの効果だけ活かすというのは、合理的な話に見えます)。

でも、狭い範囲で見ればそうかもしれないけれど、言論の自由を制約することの害悪は、そういうところに密やかに忍び寄ってくるのだと、私は考えています。

わいせつ規制はわかりやすいですが、現代の日本でも制約されている表現は多々あります。それで致命的な問題は生じていないようにも感じるから、枠を少しずつ増やしていく実験をしてみてもいいと、いちおうは思う。でも、不安なんですよね。

私は結局、自分の感情に依拠して不安を訴えているので、その点で一律排除論者と自分に根本的な違いはないとも思っています。

「両論併記」の一方に幻説を持ってくるのは、私も妥当だとは思いません。ただ、社会から排除することにまで賛成するかというと……。

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おっと、気づくと同じ話をループしてる。話は既にまとまっていて、もとより蛇足なので、唐突ですが切り上げます。

はてなハイクより転載)