近親相姦を忌避する遺伝子を人間が持つとしても……:補遺

type-100 さんのレスに返信します。

私の狭い知見からいえば、「娘が父を嫌うのは当然・自然」という文化は、むしろ特異なものに思えるわけです。

フロイト男児の母離れと対比して女児は父離れしないという観察に基づいて持論を展開しましたが、フロイトが主に批判されたのはその事実認識ではなく、その事実認識に基づく話の展開でした。つまり、女児は父離れしないまま成長するというフロイトの観察自体は、19世紀の西欧社会において、違和感がなかったと思われます。

日本の古典落語や古典小説(の現代語訳など)を見ても、女性が成長する過程で父を嫌うようになるという事例はあるものの、それを当然・自然のこと、みんなそうだといって描く作品は、逆に目にした記憶がない。

女性は成長過程で父を嫌うようになるという主張は、現代日本では半ば「常識」となっていますが、歴史的にはむしろ特異な「常識」だといっていいのではないでしょうか。

とまあ、私はあくまでも人々の文化・人間観についての「事実」をいっているのであって、例えば「娘は父の匂いを好まない」といった実験事実があっても、それは関係ありません。

type-100さんの言葉を借りるなら、かつては「重いものは軽いものより速く落ちる」と多くの人々は考えていた、という歴史的な事実を私は指摘しているのであって、「実際には昔も今も重力加速度は対象物の重量の差異によらず一定である」という物理的な事実が、そのことへの反論になるとは思いません。物理的な事実がどうあれ、人々はそう認識していなかった事実に変わりはないからです。

以上を踏まえたうえで、「好き」「嫌い」は究極的に主観の問題であり、主に文化に影響されるものであって、娘は父の匂いを好まないといった傾向が事実としてあるとしても、だから父親全体を嫌うのも当然だ、みたいな短絡に、私は与さない。歴史的事実として、娘が父を嫌うことは当然とはみなされてこなかったわけですから、例えば匂いの件が決定的要因でないことは自明です。

まあ「娘が父を嫌うのは当然・自然」派も「全員がそうだ」とはいっていない以上、私が勝手に「普遍」といい、「普遍ではない」と反論するのはズルイですね。「普遍ではない」ことを示すには反例が一つあればいいけれど、「当然・自然」説を否定するには、全部を調べて分類し、数え上げないといけない。それは難しいので、私は安直なカウンターをした、ということになると思います。

「娘が父を嫌うのは当然・自然」という文化は、本当に少数派なのか? と迫られたら、私は何ら説得力のある反論を用意できていません。狭い知識と体験から書いているだけ、という私の主張の本来の強さ(弱さ)が露呈します。

事実として「娘は父を嫌う」傾向があり、それゆえに「娘が父を嫌うのは当然・自然」という文化が多数派である……という可能性は、あります。

他方、半ば倫理的な話になりますが、「娘が父を嫌うのは当然・自然ではない」という文化が存在する・したことは事実である以上、仮にどんな生理的事実があろうとも、文化の力で「娘の父嫌い」は回避・克服できるはずであり、ならば社会は父娘の仲が良い文化を守り育てるべきだ、といった主張は、しぶとく生き残ることになります。

追記(2016-11-04 16:32:52)

私の文脈上、区別の必要がない(両方の意味に対して申し述べている)から自然・当然と述べています。

ある文化集団の中にいて、その集団の文化に親和的な人々は、多数派の常識を「正しい」と考えがちです。正義・不正義についてはまあ、それでもいいでしょうが、事実・真実に関する議論においても、そういう考え方をしやすい。これを私は「当然」と述べています。

同じ誤謬は、実際には人為の関わらない天然の理「ではない」ことまで、自分の常識に沿ってさえいれば「自然」と感じてしまう、という形でも現れます。人為的に変えられることを、変えられないと思い込む、今ある状態とは異なる状態を「ありえない」と決め付けてしまう、といったことですね。

つまり私が「当然・自然」と書いているのは、「彼らはそう思い込んでいるが実際には当然でも自然でもないこと」の意味です。「当然だ」という誤謬と、「自然だ」という誤謬を分けてそれぞれに批判する必要は、私の文脈においては認められないので、「当然・自然」とまとめて書いています。

追記(2016-11-04 16:44:51)

人類に普遍的な生理学的要因が、娘の父嫌いに支配的な影響を持つならば、一定以上の規模の文化集団は全て、「娘は父を嫌うのがふつう」という文化を持っているはずです。実際に多数派の娘が父を嫌っているなら、「娘が父を嫌うのはふつう」という文化が、普遍的に成立するでしょう。しかし事実はそうではないということを、私はフロイトの例で示しました。

これに対して、19世紀の欧州では、万有引力の例のように「人々が事実を離れた認識を持っていた」という主張も成り立ちます。「私は父を嫌いだが、世間の多数派はそうではないだろう」と大勢が誤認識するならば、事実に反する文化が成立します。しかし基本的には、そういうアクロバティックな主張をするなら、単に可能性を提示するだけで十分だとは思えません。可能性を留保するだけなら、私も同意できますが、積極的にその説を採用するには弱すぎます。

あるいは、次のような傍証もあります。日本では近年、次第に親子仲がよくなり、反抗期が失われつつあることが報告されています。娘の父親嫌いも、改善されています。短期間でフワフワ変動してしまうような事柄が、果たして生理学的要因によって支配される人間の特質でしょうか?

生理学的な要因というのは、容易には変化しないものであって、逆にいえば、短期間で激しく変化するようなことというのは、生理学的な要因が「支配的ではない」と考えるのが当然です。

そもそも「好き」「嫌い」は総合的な主観であり、生理学的要因が支配的であるとは考えにくいものです(これは血液型性格判断を疑う初歩的な根拠と同じです)。そのうえ、上記の通り、現代の日本とは異なる文化の存在が認められること、日本の文化の大きな変動が僅か数十年のスパンで観察されることなどから、「娘が父を好きなまま成長するか、途中で嫌いになるか」は生理学的要因が支配的とは考えにくい、と推論できます。

また仮に生理学的要因が支配的だったとしても、それは人類普遍のものではなく、個人差の大きいタイプの要因だと考えられます。

さらに、歴史的に不安定であることから、もし生理学的要因が支配的だったとしても、例えば食べ物や住環境など、人工的なインプットに左右されやすい要因であることが、事実に照らして推測できます。この場合、生理学的要因といえども後天的にコントロールすることは可能だ、ということになります。

結局、先天的な要因はあるとしても影響は限定的であって、後天的な要因が支配的なのであれば、たまたま自分の価値観・文化に親和的な先天的要因が見つかったからといって、そのことをもって自分の価値観・文化を「当然・自然」と補強するのは誤りだといえそうです。

追記(2016-11-04 22:49:18)

たいていの「好き」「嫌い」は高度に総合的な感情なので、文化の影響を受けまくる、というのが私の認識です。

また「生理的嫌悪感」のようなものは後天的にいくらでも獲得できるもので、例えば昆虫食などがわかりやすい事例。日本でもたった1~3世代前まで何らの嫌悪感もなしに昆虫食を行っていたのに、その子孫に対して、生後10年に満たない刷り込み期間によって、昆虫食への明確な生理的嫌悪感を育てることができる。歴史的事実を踏まえて考えれば、日本人が先天的に昆虫食に対して生理的嫌悪感を持っているわけがない。

ゴキブリ恐怖症とかも同じです。私はゾッとしますが、祖父母は平気。逆に祖父母はネズミを怖がり、足音だけでもビクッとなるのに、私は足音も可愛いと思う(幼少期、祖父母の家にはまだネズミがいました)。ネズミによる住環境汚染の恐怖を感じる空間で私が育たなかったからでしょう。人間の生理に訴える感覚は、ほとんどが後天的に文化の影響を受けていると考えないと、歴史的事実を説明できない。

人の美醜の判断基準の多様性や、遺伝子が変化したと考えるにはあまりにも短すぎる期間での基準の変遷は、ヒトの遺伝子に美醜の判断基準が組み込まれていないことを間接的に示しています。黄金比とかも、人がそれを好むのは文化の影響である可能性が高いと私は思っています。

恐怖や怒りといった感情そのものは基本的な仕組みなのでしょうが、「好き」「嫌い」の判断は、現代人の生活の中にあるそれについて、普遍的かつ先天的といえるものを探す方が難しいんじゃないかと思います。……が、まあ、私もすでにマトモな根拠を出そうという努力を放棄して、ただ放言しているだけの状態になっており、説得力のある言葉が出てくる可能性がなく、仰る通り対話を続けても不毛でしょうね。

この投稿自体も不毛ではありますが、書きたいことは書いておかないとすっきりしないので書きました。返信というスタイルをとっているのは、その方が書きやすいからで、まあこうして後手で何か書かれると気持ち悪いのは私も大いにわかるのですけれども、勝手ながら自分の都合で返信形式とさせていただきました。

はてなハイクより転載)