論文の「公開」とは何か・3

何度も書いているように、一般に「公開」は有料の場合も含む。映画の「公開」とか、美術品の収蔵品「公開」とかについて、TakamoriTarouさんは「日本語としておかしい」っていう? 本や論文も同じですよ。

だから、私じゃなくてTakamoriTarouさんが、「公開」の意味を狭く限定しているの。

TakamoriTarouさんが、論文はその狭く限定した意味の「公開」でなきゃならんと思うのは勝手ですけど、これだけ説明されても「公開」の一般的な意味を理解できないってのは、正直、意固地になっているとしか思えない。

で、これも同じ話の繰り返しでしかないけれど、論文を著作権を渡してでも論文誌に出すか、どこかで無料公開するかは、著者の自由でしょう。誰も何も強制されていない。論文誌に載せる方が、届くべき相手に届くと思えば、そうすればいいし、無料公開する方がいいと思えば、それも自由です。

人の時間は有限だから、多くの研究者は、論文誌に目を通すのです。著者が有名か無名かといったことで、有用な論文が埋もれないようにするのも、論文誌の役割。論文誌に載れば、無名の著者の論文であっても、自分と同じように論文誌をチェックしている同業者に、必ず読まれる。

論文の無料公開ってのは、単に個人でウェブサイトをやるようなもの。万人に読まれる可能性もあるけれど、誰にも読まれない可能性もある。

その選択は、著者の自由であるべきだ。

多くの論文誌は有料モデルで商売しているが、ビジネスモデルは自由に任せればいい。上から制約して、ビジネスモデルを縛るべきでない。

有料の論文誌に掲載することで同業の研究者に確実に論文を読ませつつ、論文誌のビジネスモデルを否定するのは、フリーライド。単なる身勝手。論文誌を維持するコストを回収する方法はいろいろあって、著作権で縛らない論文誌も、ある。広告モデルでやってる論文誌だってある。著作権で縛る論文誌が嫌なら、そういう論文誌に論文を載せなければいいだけ。

だから、著者の自由に任せればいい話なんですよ。著作権縛りモデルの論文誌を、頭ごなしに否定することない。

はてなハイクより転載)